江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岡部南嶽、川地柯亭ら江戸期の福井、鯖江の南画家

川地柯亭「夏景山水図」福井市立郷土歴史博物館蔵

福井藩の家老職にあった岡部南嶽(1733-1800)は、藩の御用絵師をつとめていた狩野派の絵画に飽き足らず、福井狩野家を厳しく批判し、当時勃興期にあった南画に傾倒して多くの作品を描き、墨竹をもって知られた。また、藩士の川地柯亭(1780-1872)は、弓術馬術をはじめ諸芸にすぐれていたが、特に画を好み、江戸詰の折には谷文晁に師事し、生涯画筆を離さなかったという。

他に江戸期に活躍した福井の南画家としては、福井藩士の成見如山(不明-1884)、武士をやめて各地を転々とした蒔田雲処(1812-1865)、僧侶の明正寺竹叟(1774-1840)らがいる。また、鯖江では、藩主の間部詮勝や藩士の須子蕉石、益子魯山(不明-1860)らも南画をよくした。

岡部南嶽(1733-1800)おかべ・なんがく
享保18年福井生まれ。福井藩家老。代々福井藩家老職をつとめた岡部家の長男。名は貞起、通称は左膳。明和6年に家老となり、以後32年間在任した。南画を学び、墨竹を得意とした。寛政12年、68歳で死去した。

川地柯亭(1780-1872)かわじ・かてい
安永9年福井生まれ。福井藩士。名は義裕、通称は又兵衛。留守物頭などの職をつとめ、また弓馬、槍、砲術にもすぐれた。幼いころから画を好み、京都の紀竹堂、江戸詰の際には谷文晁に師事した。また、晩年には中国の明清の作品を学んだとされる。作品は円山四条派のものから文人画風のものまで幅広い。明治5年、93歳で死去した。

成見如山(不明-1884)なるみ・にょざん
福井毛矢町生まれ。福井藩士。通称は七郎右衛門。画を谷口藹山に学び、山水画を得意とした。明治17年死去した。

蒔田雲処(1812-1865)まきた・うんしょ
文化9年生まれ。もとは武士で、のちに辞して京都、大坂、江戸を転住したといわれている。書画、詩作にすぐれ、漢学者としても知られていたという。晩年は福井の足羽山に住み、専ら墨竹を描いた。病で右手の自由を失い、左手で描いていたと伝わっている。慶応元年、54歳で死去した。

明正寺竹叟(1774-1840)みょうしょうじ・ちくそう
安永3年鯖江生まれ。名は静厳、字は帰山。寂光院とも称した。実家は鯖江河和田の明正寺。漢籍や詩文、書に親しみ、和歌を賀茂季鷹に学んだ。画を好み、長崎では鶴亭と交友し、江戸では狩野伊川院栄信らと親しく交わった。また、福井藩主や鯖江藩主で自らも画を描いていた間部詮勝らとも親交があった。墨竹を得意とした。天保11年、67歳で死去した。

益子魯山(不明-1860)ましこ・ろざん
鯖江藩士。通称ははじめ幾八郎、のちに幾八、さらに勘左衛門と改めた。名は賚、字は大賚。文政4年家督を相続し御番頭支配をつとめたが、文政12年職を免ぜられ謹慎となり、その後復帰し、御武具奉行、寺社奉行、勘定奉行などの要職を歴任したが、再び罷免された。画は鯖江藩士で画人だった須子蕉石について南画を学んだ。万延元年死去した。

福井(13)-画人伝・INDEX

文献:桃山の色 江戸の彩 福井ゆかりの近世絵画、越前人物志(上)