江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

江戸後期の越前敦賀における円山四条派の画人

内海元孝「花卉図襖」(部分)敦賀市立博物館蔵

越前敦賀は、地理的にも京都に近いことから多くの画人が京都に出て学んでいる。江戸後期に活躍した円山四条派の画人としては、若くして京都に出て晩年の円山応挙に学んだ内海元孝(1772-1835)や、元孝の養子で岡本豊彦に学んだ内海元紀(1812-1887)をはじめ、松村景文に学んだ中村西渓(1792-1845)、田中日華に学んだ石垣東山(1804-1876)、塩川文麟に学んだ今村公寵(不明-1868)らがいる。

また、越前三国出身の畑潤章(1807-1867)も同時期に円山派の中島来章に師事し、帰郷後は地元である三国を中心に活動した。

内海元孝(1772-1835)うつみ・げんこう
安永元年敦賀生まれ。通称は左京。別号に金峩山人がある。13歳で京都に上り、はじめ円山応挙に師事し、応挙没後は同門の長沢蘆雪に学んだといわれる。芦雪の没後は帰郷し敦賀を中心に活躍した。円山派の画風を忠実に守って多くの作品を残した。作品は諸寺社の襖絵や扁額、あるいは屏風・掛軸から版画に至るまで多岐にわたっている。天保6年、63歳で死去した。

内海元紀(1812-1887)うつみ・げんき
文化9年敦賀生まれ。通称は正兵衛、字は士綱。別号に帰山、螺山、椿水がある。敦賀旭町の柴田善兵衛の子で、内海元孝の養子となった。京都で四条派の岡本豊彦に師事したが、一説には後年高久靄厓椿椿山に南画を学んだと伝わっている。弘化4年には孝明天皇即位に際して御用をつとめた。晩年には南画に移行し山水画を得意とした。子に内海吉堂がいる。明治20年、75歳で死去した。

中村西渓「猛虎図」

中村西渓(1792-1845)なかむら・せいけい
寛政4年敦賀生まれ。通称は伊助、名は元矩、字は子文。一般に姓は西村とするが本姓は中村、または谷口。酒造業・井筒屋忠兵衛の二男。文化3年頃京都に上り四条派の松村景文に師事した。その後文政年間に帰郷し、敦賀で画家として活動した。師風をよく学び、花鳥画を得意とした。弘化2年、54歳で死去した。

石垣東山(1804-1876)いしがき・とうざん
文化2年敦賀生まれ。通称は東平。別号に角鹿、石東などがある。円山派の田中日華に師事したといわれる。帰郷後は敦賀鞠山藩主酒井家に仕え、天保12年藩主に随従して大阪に移り、以後も同地で画家として生涯を送った。狂歌、和歌、俳句にもすぐれた。門下に跡見花蹊らがいる。明治9年、73歳で死去した。

今村公寵(不明-1868)いまむら・こうちょう
敦賀の西濱町(現在の蓬莱町)生まれ。通称は久左衛門、字は才許。京都に上り四条派の塩川文麟に画を学んだ後帰郷し、敦賀を拠点に活動した。山水、人物、花鳥を得意とした。明治元年死去した。

畑潤章(1807-1867)はた・じゅんしょう
文化4年三国生まれ。幼名は音八、通称は糸屋。京都に上り円山派の中島来章に師事し、帰郷後は地元である三国を中心に活動した。師の要請に応じてたびたび上京して仕事を手伝っていたようで、安政度の御所造営では来章の障壁画制作に加わっている。画風は師風をよく伝え、花鳥、人物にすぐれた。慶応3年、61歳で死去した。

福井(12)-画人伝・INDEX

文献:桃山の色 江戸の彩 福井ゆかりの近世絵画、郷土画家とその関連門流展、越前人物志(上)