江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

風俗画の分野に新境地を開き、浮世絵の開祖と称された岩佐又兵衛

岩佐又兵衛「花見遊楽図屏風」(部分)

岩佐又兵衛(1578-1650)は、大和絵と漢画を折衷したような独特の画風で風俗画の分野に新境地を開き、「浮世又兵衛」の異名をとり、一世を風靡した。浮世絵の祖、大津絵の祖とも称され、その様式は同時代やのちの作品に大きな影響を与えた。

又兵衛の詳しい経歴は伝わっていないが、武将荒木村重の子あるいは孫として生まれたと思われる。村重は、織田信長に仕えた有力武将の一人だったが、突如として信長に謀反を起こし、信長の城攻めにあい、村重は落城前に尼崎城に逃げ落ちたが、残された家臣や女性、子供らは処刑された。この時2歳だった又兵衛は、乳母の手によって城を脱出し、その後は母方の岩佐姓を名乗ったという。

いつ頃から画を学んだのかもはっきりしないが、村重の家臣の子である狩野内膳に学んだとも、土佐派の絵師に学んだとも伝わっている。いずれにしても、土佐派をはじめ、狩野派、長谷川派、雲谷派など諸派の画風や古典作品に学んだと考えられている。

40歳頃に福井藩主松平忠直の招きにより、京都から越前北之庄(現在の福井市)に移り住んだが、御用絵師として藩に仕えたのではく、工房を主宰して作品を制作していたと考えられている。約20年間を福井で過ごし、この時期に又兵衛の自己様式を確立させ、数多くの傑作を生んでいる。

寛永14年、還暦を迎えた又兵衛は、妻子を福井に残して江戸に移住している。江戸での又兵衛は、寛永15年に焼失した仙波東照宮の再建拝殿に奉納する「三十六歌仙図扁額」を描くなど多忙だったようで、仕事を早く終わらせるようにとする督促の手紙も残っている。その後も妻子の住む福井に戻ることなく、73歳で江戸で没した。

岩佐又兵衛(1578-1650)いわさ・またべえ
天正6年生まれ。武将荒木村重の子あるいは孫。名は勝以。別号に道蘊、碧勝宮がある。はじめ京都、のちに越前に移り、晩年は江戸で過ごした。諸派の画風や古典作品を学び、独自の画風で岩佐派を興した。人物画に本領を発揮し、作品は和漢の古典を題材にしたものから当世風俗までと幅広い。「浮世又兵衛」と呼ばれ、浮世絵の祖ともいわれている。慶安3年、73歳で死去した。

福井(07)-画人伝・INDEX

文献:桃山の色 江戸の彩 福井ゆかりの近世絵画、郷土画家とその関連門流展