江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

江戸浜町狩野と松山藩御用絵師

豊田随可「鷹ニ芦雁之図」

二代で終わった松本山雪・山月の後を受けて松山藩の御用絵師となったのは、豊田随園、武井周発、豊田随可の三代、三人である。かれらは江戸の浜町狩野家初代・狩野随川岑信、そして二代・随川甫信に学んだ江戸狩野派の流れを汲む画人で、松山藩では松本山雪・山月に代わって豊田随園の藩絵師時代に入ると、それまで中心だった京狩野の画流に代わって、江戸の狩野派の流れが導入された。松山藩御用絵師の狩野派は、豊田随園、武井周発、豊田随可の次に、住吉派の遠藤親子を挟みながら、荻山常山、荻山養弘と引き継がれ、阿倍晴洋が最後の松山藩御用絵師となった。

豊田随園(不明-1732)とよだ・ずいえん
松山藩御用絵師。別号に常之がある。『歴俸仕録』によると「はじめ忠八と言う。絵方巧者につき、元禄十年次小姓抱、同十一年、狩野随川(岑信)より免許に依て、剃髪、随園と改め、七十俵側医師格」となったとある。また『古今記聞』には「小児の時は餅など売りて、家中の長屋杯を徘徊して賤しき者なりと、この小児なりし時より画を好みて反古塵紙などを与ふれば、画を書く。其風説凡ならず、其親画をならわし、終に召し出され、狩野家の後見台命を蒙りたる者也。希世の名画というべし。随の字は狩野家にて賜わりし字のよし」とある。また『狩野門人帳』には、「本名米田金七、はじめ讃岐高松家の藩士」とあるなど、不明な点は多い。享保17年、死去した。

武井周発(1694-1770)たけい・しゅうはつ
元禄7年生まれ。松山藩御用絵師。押川由貞の四男。初め作之丞と称し、のちに半三郎、半蔵、作右衛門と改めた。周発と名乗るまでは常美と呼ばれていた。正徳5年、武井家の養子となって家督を継いだ。幼いことから縁戚関係にある豊田随園のもとで画を手ほどきを受けたと考えられる。その後、江戸へ出て狩野周信や松本隋川に学んだとされる。豊田随園の後を継いで松山藩絵師となってからも、参勤交代の際に藩主のお伴で江戸へのぼったという。愛媛県内に残された周発の作品は多く、署名とともに「伊陽之産周発」「豫陽之産」「清流軒」などの印が押されている。明和7年、77歳で死去した。

豊田随可(1721-1792)とよだ・ずいか
松山藩御用絵師。豊田随園の子。別号常令。武井周発の後をうけて藩絵師となった。『古画備考』によると浜町狩野家の初代と二代に学んだとされる。また『古今記聞』によると、随可が突然家出をし、父・随園は狩野家から「随」の字を返上させられる憂き身にあったとあり、隋可の奇行ぶりはしばしば話題になったとされる。また、『松山分限録』には、「御画師 豊田随可百石六人扶持。画執行豊田千里十五石三人扶持」とあり、歴代の御画師の中で最高の地位にあったことがうかがえる。寛政4年、72歳で死去した。

荻山常山(不明-1821)おぎやま・じょうざん
松山藩御用絵師。木挽町狩野尚信の子常信に学び、狩野派の絵をよくした。文政4年に死去した。

荻山養弘(不明-1841)
松山藩御用絵師。荻山常山の子。天保3年死去した。

荻山雅広(不明-1876)
荻山養弘の子。木挽町狩野雅信の門人。万延元年作の雄郡神社「社景図」が残っている。明治9年死去した。

阿倍晴洋(不明-1887)
松山藩最後の御用絵師。別号に養年がある。木挽町狩野養信の門人。として多くの作品が残っている。明治20年死去した。この子雅山も画をよくした。

愛媛(2)画人伝・INDEX

文献:伊予の画人愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝