江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

俳諧、漆芸、絵画などでマルチな才能を発揮した小川破笠

小川破笠「犬と戯れる遊女と禿図」東京国立博物館蔵 提供:東京国立博物館 https://webarchives.tnm.jp/

小川破笠(1663-1747)は、江戸文化がひとつの頂点を迎えた元禄時代から享保時代にかけて、俳諧、漆芸、絵画などさまざまな分野で才能を発揮し、特に漆芸においては、その独特な細工が「破笠細工」と呼ばれ、世界的にも高い評価を得た。19世紀後半の西洋では、尾形光琳、葛飾北斎、歌川広重に破笠を加えて、「日本の四大芸術家」と理解していたとも伝わっている。

破笠が最初に世に出たのは、松尾芭蕉門下の俳諧師としてで、20~30歳代は俳諧師として活動していたとみられる。このことは貞享3年の発句合を筆録した「蛙合」に破笠の句が見られるほか、貞享から元禄年間に、親しく交友していた服部嵐雪、宝井其角らの周辺で編集された句集にも数句が掲載されていることから確認できる。しかし、その後の10数年間の動向は明らかではなく、次に破笠が表舞台に現れるのは、享保年間のころで、この時は俳諧師としてよりも、独創的な漆芸家として、また絵師としての登場だった。

50代で漆芸家、絵師として名をなした破笠だが、弘前藩のお抱え細工人になるのは、享保8年のことで、この時すでに破笠は61歳になっていた。そのきっかけとしては、両国橋の袖で玩具を売っていたところ、それをみた津軽侯がその巧妙な作品に驚き、お抱え細工人として召し上げたとも、浅草観音の境内で玩具を売っていたところを、その作品を好んでいた遊女屋の主人が、弘前藩の役人が吉原に遊びにくるたびに飾ってみせ、津軽侯に推薦したともいわれている。

絵師としてではなく、細工人として召し抱えられた破笠だが、85歳で没するまでの25年間に多くの絵画を手掛けている。絵は親しく交友していた英一蝶に学んだとされる。また、狩野常信や周信とも親しく、彼らの影響を受けながら、独自の画風を形成していったと思われる。狩野派のなかに、土佐派的な、または浮世絵風な要素を盛り込んだ人物画を多く残している。

小川破笠(1663-1747)おがわ・はりつ
寛文3年生まれ。出身地は江戸と伊勢の二説がある。はじめ金弥といい、俗称は平助、名は観、字は尚行。別号に笠翁、宗羽、宗宇、卯観子などがある。また、居を夢中庵と称した。俳諧をはじめ福田露言に学び、のちに松尾芭蕉の門に学んだとされる。絵は親しく交友していた英一蝶に学んだと思われる。20歳から30歳代のころは俳人として活動した記録があるが、その後の10数年間の動向は明らかでなく、次に表舞台に登場したのは、享保年間のころで、俳人としてよりも、独創的な漆芸家として、また絵師としてだった。享保8年、61歳の時に弘前藩五代藩主・信寿に細工人として御近習医者並の待遇で召し抱えられた。以後、津軽家の支援を受けて制作した。延享4年、85歳で死去した。

青森(6)-画人伝・INDEX

文献:青森県史 文化財編 美術工芸、津軽の絵師、津軽の美術史