館岡栗山(1897-1978)は、馬川村(現在の五城目町)の農家に生まれ、秋田師範に入ったが病弱だったため1年たらずで中退、京都に出て、昭和3年から近藤浩一路に師事した。昭和8年院展に初入選し、師の浩一路が日本美術院脱退後は、安田靫彦に師事し、院展に出品を続けた。盆踊り、ナマハゲ、八郎潟風景、郷土芸能などを好んで題材とした。
昭和20年に疎開のため帰郷してからは、八郎潟町に住み、昭和21年には高橋萬年らと「有象社展」を開催、昭和33年からは県内の院展系作家による「新樹社」を創設し、秋田県の美術界の向上をはかった。
戦後は、南秋田郡内の政治、文化、産業に貢献することを目的に「湖畔時報」を発行。また、大正期には俳句雑誌「山彦」を主宰して作句活動をし、夫人とともに歌瀬歌会を結成するなど、文化活動も積極的に行なった。
館岡栗山(1897-1978)たておか・りつざん
明治30年秋田県南秋田郡馬川村生まれ。本名は豊治。秋田師範を中退して、京都に出て勉学、昭和3年から近藤浩一路に師事した。昭和8年「台温泉」が院展初入選。ついで安田靫彦に師事した。昭和12年春展で「雨後」が横山大観賞を受賞。昭和14年日本美術院院友、昭和43年特待になった。昭和29年河北展文部大臣賞受賞、日本美術協会招待出品者となった。昭和33年には県内の院展系作家による日本画研究グループ「新樹社」を設立、昭和37年秋田県文化功労者表彰を受けた。著書に『銀婚』『栗山画談』がある。昭和53年、81歳で死去した。
秋田(27)-画人伝・INDEX
文献:秋田県立博物館収蔵資料目録、秋田県立近代美術館所蔵作品図録 1994、秋田市立千秋美術館所蔵作品選