由利・本荘地方は、本荘狩野といわれる独自の絵画圏をつくり、狩野派が大きな勢力を持っていたが、谷文晁系の南画を学んだ増田九木は、長い旅の末に広く画名をあげ、帰郷後には藩御用絵師として活躍した。
増田九木(1782-1848)は、秋田県仁賀保町平沢字三森に生まれ、家は農家だった。号の「九木」は、生地の「三森」が森3つなので木は9つというところから付けたという。農業に関心はなく、幼いころから絵を好み、若くして京都に出て岸駒に入門し、その後江戸に出て谷文晁に師事した。
その後は各地を転々とし、53歳で本荘に戻るまで、人生の大半を旅に費やしたと思われる。越後では良寛と出会い、意気投合してたびたび越後に向かっては良寛と会っていたようで、「良寛図」(掲載作品)のような作品も残している。また、越後では釧雲泉とも出会い、私淑したとも伝わっている。
九木の養子となった増田象江(1818-1897)は、本荘の小島家に生まれ、幼くして九木の門に入り、九木の勧めで江戸に出て谷文晁に師事した。養父同様に諸国を歩いてから故郷に帰り、増田家の養子となった。象潟が好きだったことから「象江」と号したという。石や木を集めるのが趣味で、それを庭だけでなく家のなかにも並べ、男性的な石を見つけると、これと対になるような石を探しては連れ添わせていたという。
増田九木(1782-1848)ますだ・きゅうぼく
天明2年仁賀保町平沢字三森生まれ。名は国文、のちに曽文。別号に九木文、九木道人、九木樵者、曾尹炳、曾仲寳、曾仲彬、八々翁、九木山樵などがある。若くして京都に出て岸駒に学び、のちに江戸で谷文晁に師事した。人生の大半を旅に費やし、良寛、釧雲泉、石井子龍らと親しく交友した。53歳で本荘に戻り、本荘藩の御用絵師となった。門人に、六平寿栄、加藤寒斎、大平蹄山らがいる。嘉永元年、67歳で死去した。
増田象江(1818-1897)ますだ・きさえ
文政元年本荘生まれ。本名は曽信。旧姓は小島。増田九木の養子。別号に文舟、松洞、木石長者、帯硯翁、佩硯翁、蓬莱山人、渓山堂、臥久山人、香雪園などがある。15歳の時に江戸に出て谷文晁や山本梅逸について南画を学んだ。のちに増田九木の養子となり、養父の没後30歳で家を継いで本荘藩御用絵師となった。自然の木石を集める趣味があり、別号の木石長者、木石山人はそのために付けられたという。明治30年、80歳で死去した。
秋田(15)-画人伝・INDEX
文献:本荘の歴史、秋田書画人伝、東北画人伝