江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

米倉寿仁と山梨の前衛絵画団体

米倉寿仁「ヨーロッパの危機」山梨県立美術館蔵

昭和4年、山梨師範学校出身の小柳津経広、中村宗久、田中常太郎らが提唱し、これに太平洋美術学校出身の砂田正己、内田一郎らが呼応して集結し、さらに在京の埴原久和代土屋義郎、橋戸素視、金子保、小俣球一、金田豊らが加わって「甲斐美術会」が結成された。同会は、洋画と彫刻の部門しかなかったが、第1回展を結成と同時に甲府市桜町の創生館で開催した。

この甲斐美術会の出品作が、穏健でアカデミックな作風に支配され、官展的気風が漂っていたことから、それに対抗し、山梨県内で前衛絵画集団が次々と結成され、在野的な感覚で活動するようになった。

昭和5年、米倉寿仁、辻葦夫が中心となり、小柳津経広、中村宗久、田中常太郎、小宮山堅次らが加わり、前衛絵画集団「六人社(のちに皓人会と改称)」が結成された。この会は、当時のヨーロッパに興ったダダやシュルレアリスムの時代的潮流を受け、前衛主義を宣言して結成され、第1回展が商工会議所で開催された。

昭和7年には、浜武雄が中心になり、斉藤清子、大久保たけ子、大河内幸俊、宮沢良雄、篠原都留治、中沢文雄、矢田勲、乙黒弘邦らが「麻保羅会」を結成、第1回展を商工会議所で開催し、昭和9年の第3回展まで続いた。さらに同年、フォビスムを唱える辻葦夫、高見沢重一、坪田一穂、奥村庄太郎、宇佐美一らによって「白穂会」が結成された。

ほかにも小グループが結成され、甲府市内外ではグループ展や個展などが次々と開催され、県内画壇は活気に満ちたが、次第にこのような個々の活動では山梨全体の芸術文化の向上には発展しないという機運が高まり、県内における各会は期せずして昭和11年にすべて解散、昭和12年の「山梨美術協会」結成という方向へと移行するようになる。

米倉寿仁(1905-1994)よねくら・ひさとし
明治38年甲府市生まれ。名古屋高等商業学校を卒業後、甲府に戻って高校の教師をしていたが、村山知義の著書から絵画への興味を触発され、当時日本に紹介されたばかりのシュルレアリスム絵画を独学で学び、昭和5年前衛絵画集団・六人社を結成した。昭和6年、26歳の時に二科展に初入選。その後、福沢一郎の知己を得て、昭和10年独立展に初入選。翌年絵画制作に専念するために教職をやめて上京した。昭和12年山梨美術協会の結成に参加。昭和13年にはシュルレアリスム系の画家たちが集まった創紀美術協会を結成、翌年には独立展を脱退して美術文化協会の結成に参加した。昭和26年美術文化協会を脱退し、昭和27年前衛美術団体サロン・ド・ジュワンを結成、以後同会に出品を続けた。平成6年、89歳で死去した。

辻葦夫(1902-1980)つじ・あしお
明治35年甲府市生まれ。本名は芳雄。甲府中学(甲府一高)を経て、慶應義塾大学を卒業。在学中から油絵を描き、昭和4年福沢一郎に師事。翌5年に米倉寿仁と県内のシュルレアリスム絵画グループ「六人社」を結成。ついで昭和12年山梨美術協会の結成に参加。昭和16年、17年と副委員長をつとめた。昭和19年独立展に初入選。昭和30年には中村宗久らと「白濤会」を結成し、二代会長をつとめた。昭和55年、78歳で死去した。

山梨(25)-画人伝・INDEX

文献:山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編