江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

洋画から転じ水墨画に新境地を拓いた近藤浩一路

近藤浩一路「鶏冠井青嵐」

近藤浩一路(1884-1962)は、山梨県南巨摩郡睦合村(現在の南部町)に生まれ、3歳の時に病弱な父の療養のため一家で静岡県岩渕村(現在の富士市岩淵)に転居した。幼いころから画才を発揮し、韮山中学校(現在の静岡県韮山高等学校)を卒業後は上京して白馬会洋画研究所に通い、東京美術学校西洋画科に入学した。

在学中から白馬会に出品する一方で、日本画科在籍の浜谷白雨との親交からモノクロームによる描画に興味を持ち、水墨画も描きはじめた。美術学校では1年落第してしまうが、藤田嗣治、岡本一平、池部鈞らと同級となり、生涯交友を続けた。

卒業後は、白馬会や文展に外光派風の作品を出品して洋画家として歩き出したが、結婚を機に生活を安定させるため、大正4年に読売新聞社に入社、漫画や挿絵を担当した。これが人気を博し、美術学校同級で朝日新聞に入った岡本一平とともに「一平・浩一路時代」と称されるほどになった。

その後も岡本一平らと「東京漫画会」を結成するなど、漫画記者として活躍する一方で、川端龍子や小川芋銭らの親睦グループ「珊瑚会」に第4回展から参加し、水墨画の研究も深めていった。そして大正8年、日本美術院展に出品し、2年後には同人に推挙され、水墨画家として再出発することになった。

一大転機となったのは、大正11年のヨーロッパ及び中国旅行だった。この旅行で印象派以後の西洋絵画の刺激のうちに、東洋の伝統的な画材である墨の尊さを再認識し、より水墨画への研究を深めていき、翌年発表した「鵜飼六題」によって水墨画に新境地を拓き、西洋画法と水墨画を融合させた、光と影によって描きだす独自の画風を確立した。

さらに昭和6年、2度目の渡仏の際には、アンドレ・マルローと親交を結び、その斡旋で新フランス評論社の画廊で個展を開き、ポール・クローデル、ポール・ヴァレリー、アンドレ・ジッド、シュアレスをはじめ多くの文学者たちに賞賛をもって受け入れられ、水墨画家としての評価を高めていった。

昭和11年、画壇に頼らず日々ゆとりを持って作画に取り組むため、日本美術院を脱退した。その後は、年に1、2回の個展を主な作品発表の場とし、都内に自宅兼アトリエを構え、時には日本各地に写生旅行に出かけ、絵画三昧の生活を送った。そして昭和28年、日本橋三越で「水墨画30年回顧展覧会」を開催し、その翌年から日展に出品するようになり、再び画壇に登場した。

近藤浩一路(1884-1962)こんどう・こういちろ
明治17年山梨県南巨摩郡睦合村(現在の南部町)生まれ。本名は浩。別号に畫蟲斎、土筆居がある。祖父喜則は山梨県初代県議会議長をつとめた。3歳の時に一家で静岡県岩渕村に転居。韮山中学校卒業後、上京して和田英作の門をたたき白馬会洋画研究所に通い、東京美術学校西洋画科に入学した。卒業後は読売新聞社に入社して挿絵や漫画を描き、のちに水墨画に転じ、日本美術院同人となった。2度にわたる渡仏によって印象派の影響下にある西洋画に触れ、光と影の効果を生かした独自の水墨画様式を確立、大正12年第10回院展に出品した「鵜飼六題」はその画風を決定した記念的作品とされる。昭和6年2度目の渡仏に際して、フランスで個展を開催、これを機に知り合ったアンドレ・マルローとは生涯にわたって親交を持った。昭和11年日本美術院を脱退。第二次世界大戦後、依嘱されて日展に出品を続け、昭和35年会員となった。昭和37年、78歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(近藤浩一路)

山梨(15)-画人伝・INDEX

文献:山梨の近代美術、山梨県立美術館コレクション選 日本美術編、山梨に眠る秘蔵の日本美術、山梨県立美術館蔵品総目録、山梨「人物」博物館 甲州を生きた273人、山梨県立美術館研究紀要第17号(珊瑚会の活動に見る大正期日本画の一様相)