都留市出身の画人としては、旭岳麟、清水豊掌のほかに米山朴庵(1864-1928)がいる。朴庵は、山梨県南都留郡境村(現在の都留市境)に生まれ、滝和亭が下谷村の小池家に身を寄せていたときに弟子入りしたと伝わっている。
師の和亭が親しかった野田醤油(現在のキッコーマン)の茂木宅に寄寓して絵を描き、和亭没後も親交を深めた。掲載の「威震八荒」も茂木家に伝わっていたものである。画界の派閥関係や師の贔屓を嫌い、展覧会には出品せず、画壇の在り方に反抗し、名声を欲しない姿勢を貫いたとされる。
米山朴庵に師事した田中蘭谷(1884-1959)は、23歳の時に朴庵の世話で当時織物仲買商をしていた高尾町の小宮宅に下宿し、その後下宿先を中町の江州屋に移して絹問屋に出入りし、明治・大正時代に谷村で盛んだった絵甲斐絹の下絵の絵師をしながら画業に専念した。
また、修業のため各地を遍歴していた五十嵐城南(1867-1929)も、絵甲斐絹の下絵の絵師として谷村に住み、この地を制作の拠点としている。藤井霞郷(1903-1949)は、母と妻が都留市山形山の出身であり、後年病気療養のため小形山に移住した。
米山朴庵(1864-1928)よねやま・ぼくあん
元治元年南都留郡境村(現在の都留市境)生まれ。本名は登、旧名は和蔵。別号に停雲閣、湲素軒、六石堂がある。8歳の時に米山喜七の養子となった。境尋常小学校を卒業後、時期は定かではないが滝和亭に入門した。和亭とともに千葉県の野田醤油醸造業の茂木宅に寄寓して絵を描き以後親交を深めた。谷村の小池宅にも出入りし作品を残している。昭和3年、64歳で死去した。
田中蘭谷(1884-1959)たなか・らんこく
明治17年千葉県夷隅郡上瀑村下大多喜(現在の大多喜町)生まれ。高等小学校卒業後、好きな絵画の道に入り苦学して美術関係の学校を卒業し、甲府の中学校につとめたとされる。その後、米山朴庵に師事し、23歳の時に谷村に移り絵甲斐絹の下絵を描きながら絵の道に専念し、藤井霞郷の紹介で小室翠雲の門に入った。昭和5年第11回帝展に初入選し、以後入選を重ねた。この頃から東京に画室を持ち、東京と谷村を行き来する生活となった。昭和34年、75歳で死去した。
五十嵐城南(1867-1929)いがらし・じょうなん
慶応3年生まれ。本名は喜惣太。別号に城南逸士。伊勢崎藩士の子。父の氏蔵は明治初年谷村に裁判所が置かれた時の初代判事。城南は田崎草雲に入門したのち、修業のため各地を遍歴して谷村に居住し、当時さかんだった絵甲斐絹の下絵を描きながら画道に専念した。昭和4年、62歳で死去した。
藤井霞郷(1903-1949)ふじい・かきょう
明治31年東京芝区高輪町(現在の港区高輪)生まれ。本名は徳太郎。尋常小学校卒業後、橋本雅邦、川合玉堂の門下生となって画を学び、大正11年、24歳の時に下萠会に出品、大正13年第5回帝展に初入選した。第二次世界大戦中は生活が困窮し、病弱となったため、妻の故郷小形山に住み、半農半画の生活を続けた。昭和24年、51歳で死去した。
山梨(07)-画人伝・INDEX
文献:郷土の画家展-江戸時代から近代に活躍した画家たち(ミュージアム都留)