江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

紀州侯のお抱え絵師になったと伝わる旭岳麟

旭岳麟「松鶴図屏風」(部分)

山梨県都留市は、古くから郡内地方の中心地として発展し、特に江戸時代前期には谷村藩の城下町として栄えた。幕府の直轄地となってからも葛飾北斎や松尾芭蕉をはじめ多くの文人たちがこの地を訪れ、多様な江戸文化が色濃く現在に伝わっている。

画人では、江戸に出て紀州侯のお抱え絵師になったと伝わっている旭岳麟をはじめ、米山朴庵、田中蘭谷、五十嵐城南、藤井霞郷、清水豊掌らがこの地で活動し、市内各所にその足跡を残している。

南都留郡盛里村(現在の都留市朝日馬場)に生まれた旭岳麟(1799-1878)は、10代の時に江戸に出て僧・雲室の弟子だった画僧・波羅蜜の門人となり、20歳頃には紀州侯のお抱え絵師になったと伝わっている。鷹の絵を得意とし、その評価の高さから紀州侯に留め筆を命じられ、紀州侯以外には鷹の絵を描かなかったといわれている。明治維新後、帰郷し寺院などの依頼に応じて多くの絵を描いた。

岳麟に師事した清水豊掌(1830-1916)は、絵については依頼されれば描く程度だっと伝わっており、残っている作品は極めて少なく、朝日馬場の本光寺の天井画にいくつかの作品が確認できる程度である。

旭岳麟(1799-1878)あさひ・がくりん
寛政11年南都留郡盛里村(現在の都留市朝日馬場)生まれ。別号に旭羅山、明哲がある。10代の頃に僧雲室の弟子・僧波羅蜜に入門し、画の道に専念したとされる。20歳頃、江戸の出て紀州侯のお抱え絵師になったと伝わっている。明治維新後、70歳前後で故郷の盛里に帰った。正蓮寺襖絵として描かれた「松鶴図屏風」などが残っている。明治11年、79歳で死去した。

波羅蜜(不明-不明)はらみつ
画僧。旭岳麟の師。富士吉田市出身と思われる。富士吉田市内の大正寺山内の寿命寺に住み、その後江戸に出て光林寺に住んだとされる。花鳥人物を得意とした。江戸では紀州藩江戸屋敷の幼君の絵の師となり、後年請われて紀州藩に赴き、当地で没したと伝わっている。

清水豊掌(1830-1916)しみず・とよたか
天保元年南都留郡宝村(現在の都留市宝)生まれ。名は辰三郎。旭岳麟に師事した。岳麟が明治維新後に故郷に帰った頃に弟子入りしたと思われる。大正5年、86歳で死去した。

山梨(06)-画人伝・INDEX

文献:郷土の画家展-江戸時代から近代に活躍した画家たち(ミュージアム都留)