甲斐国は、天正10(1582)年の武田氏滅亡後は、織田・豊臣期を経て、江戸時代には徳川家の領有となり、幕府の直轄あるいは甲斐徳川家による統治が続いていた。宝永元(1704)年、それまで甲府城主をつとめていた徳川綱豊(のちに家宣と改名)が五代将軍徳川綱吉の後継者に決定し江戸城に入ったため、その後任として幕府の大老格・柳沢吉保が甲府城主となった。
柳沢吉保(1658-1714)は、少年期から将軍綱吉の側近として仕え、異例の出世を果たし幕臣としては最高位の大老格となった。甲斐源氏一族の一条氏の末裔と伝わっており、綱吉によって甲府城主に命じられたのも、幕府における長年の功績を賞して、吉保にとって先祖の地である甲斐国を与えられたものと思われる。
吉保は甲府城主となったのちも幕府の要職についていたため江戸を離れなかったが、甲府に配属した家老の藪田重守に細かい指示を送り、甲斐国の統治に力をそそぎ、甲府城とその城下町を整備した。特に甲府城の整備には力を入れ、内部の杉戸絵は狩野探幽の子・探信によるものと伝わっている。
吉保と幕府御用絵師だった狩野派との関係は深く、特に狩野常信は、狩野派筆頭にのぼりつめながらも、将軍綱吉に疎んじられ諸大名からも距離を置かれていた時期があり、吉保の進言によって名誉挽回を果たしたといわれる。吉保との親密な関係がうかがわれ、甲府市一蓮寺や韮崎市常光寺に残る「柳沢吉保像」など、常信の作品は甲府市内及び山梨県内に残っている。
また、名門甲斐源氏の末裔であること強く意識していた吉保は、戦国武将の武田信玄を崇拝するとともに、その伝統を引き継ぎ、後継者となることを強く望んでいた。宝永2年には信玄の百三十三回忌の法要を恵林寺で営み、信玄佩用と伝わる太刀「銘来国長」を奉納し、自らが信玄の後継者であることを世に示している。
柳沢吉保(1658-1714)やなぎさわ・よしやす
万治元年江戸市ヶ谷生まれ。五代将軍徳川綱吉の家臣・柳沢安忠の子。幼名は十三郎。房安、佳忠、信元、保明と改名し、通称は主税、弥太郎。延宝3年、父の隠居に伴い18歳で家督を継いで綱吉の小姓組に配属され、綱吉の学問上の弟子となった。元禄元年側用人に就任し、川越城主となった。元禄14年には松平の姓と吉の一字を賜り、宝永元年、長年の功績により甲斐国を賜り甲府城主となった。宝永6年綱吉の死去に伴い隠居し、駒込の下屋敷に移った。正徳4年、57歳で死去した。
山梨(01)-画人伝・INDEX
文献:山梨「人物」博物館 甲州を生きた273人