江陵岸賢(不明-1825)は、下関出身でもっとも古い画家とされ、岸賢、岸規、岸明と三代続く下関岸家三代の祖として知られる。「岸」を名乗ったのは、京都の岸派を学んだためで、子の岸規、孫の岸明は、それぞれ下関画壇に名を残している。特に子の岸規は、長府藩御用絵師をつとめ、郷土画家の育成にも強い影響力を持っていた。ほかに防長の岸派としては、岸駒に学んだ長八海(1811-1893)、岸龍山(1816-1889)がいる。また、岸明に学んだ金子鴎雨(1848-1884)、富田壺僊(1849-1898)は、後に豊後の帆足杏雨に入門し、南画に転じた。
江陵岸賢(不明-1825)
通称は梅圃。別号に椿溪がある。実家は南部町でかつお問屋を営んでおり、代々主人は茶屋伝三郎を名乗っていた。南部町の永福寺に残る過去帳では、没年は文政8年の1月とされているが、何歳だったかは不明。岸賢が残した自画像には、七十六歳翁と記されているところから、それ以上生きていたと推測できる。
岸規(不明-1864)
江陵岸賢の子。名は規、通称は隣内。家を継ぎ茶屋伝三郎と名乗った。幼いころから父について画を学び、のちに京都に出て岸岱に師事した。下関岸家三代のうち最も評価が高かったという。元治元年死去した。
岸明(不明-1905)
岸規の子。名は粟治。幼いころから父について画を学んだ。明治38年、82歳で死去した。
長八海(1811-1893)
文化8年平生町生まれ。大野毛利家の家臣。はやくから画家を志し、文政12年京都の岸駒、岸岱の門に入り岸派の画法を学んだ。特に虎画を得意とし、「八海の虎」と称された。明治26年、83歳で死去した。
岸龍山(1816-1889)
文化10年玖珂広瀬生まれ。はじめ菅江嶺に学び、のちに京都に出て岸駒に師事した。岸駒の信頼あつく、娘婿となった。明治23年、74歳で死去した。
金子鴎雨(1848-1884)
嘉永元年丸山町生まれ。紺屋金子亀吉の子。名は兵輔。幼いころから画を好み、10代の初めころ、富田壺僊とともに、当時下関の画家として権威のあった岸明に入門し、閑溪と号した。21歳の時に豊後の帆足杏雨に入門し、号を鴎雨と改めた。豊前の村上仏山に入門して詩文も学んだ。明治17年の第2回絵画共進会に出品するため「水中百魚譜」を制作していたが、完成した日に絵筆を握ったまま絶命、36歳で世を去った。遺作は友人の富田壺僊により出品され二等賞を受賞した。
富田壺僊(1849-1898)
嘉永2年観音崎町生まれ。紺屋富田武左衛門の子。名は宗太郎。父も画をたしなんだことから、幼いころから画を好み、金子鴎雨とともに岸明に入門、壺月と号した。さらに鴎雨とともに、帆足杏雨に師事し、村上仏山に詩文を学んだ。明治17年に鴎雨が突然死去したため、その遺作を内国絵画共進会に出品、自身は画業修業のため全国行脚の旅に出た。40歳の時に下関の戻り、行脚の経験をもとに作品を残したが、明治31年、49歳で死去した。
山口(11)-画人伝・INDEX
文献:山口県の美術、下関の人物、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで