大庭学僊(1820-1899)は、徳山に生まれ、11歳の時に徳山藩御用絵師・朝倉南陵に師事、18歳の時に京都に出て、下関出身の小田海僊のもとで画技をみがき、海僊の養子となった。学僊は、師の小田海僊がたどった四条派から南画への流れとは逆に、南画から四条派へと進み、さらに浮世絵を含めた諸派を学び、明治になって南北合法を標榜するようになった。明治21年に竣工した明治宮殿の杉戸絵制作では、全国から人選された画家27人の中に、柴田是真、川端玉章、荒木寛畝らとともに選ばれ、「桂花」「花菖蒲」など4点の杉戸絵を描いた。その後も、内国勧業博覧会や日本美術協会展で受賞を重ね、明治日本画壇で活躍した。娘の美津(光子)は高島北海(1850-1931)に嫁いだ。門人の坂原五行(1871-1941)は、下関に移り住み、画会を主宰して後進の指導にあたった。
大庭学僊(1820-1899)
文政3年徳山生まれ。刀鍛冶三吉与次兵衛の二男。三好家は安芸の出身で與次兵衛の代に徳山に移り住んだ。名は百合吉。幼いころから画を好み、11歳で徳山藩絵師・朝倉南陵に学び、南江と号した。この頃、遠石八幡宮に奉納する額絵を、師の南陵に代わって完成したというピソードも残っている。15歳の時に、谷文晁の門人と称する原文暉に師事、18歳になって京都の小田海僊の門に入った。海僊からはその才能を認められ、30歳ごろに養子となったが、のちにこれを辞して徳山に帰った。さらに萩に転居して、洞春寺の寺僧大庭氏の名跡を譲り受け、大庭学僊と名乗った。明治維新後は、活躍の場を東京に求め、明治5年53歳のときに上京した。明治10年と14年の内国勧業博覧会に出品、褒賞を受賞、明治21年に竣工した明治宮殿の杉戸絵制作では、全国から人選された画家27人の中に選ばれるなど、次第に頭角をあらわし、明治画壇で活躍した。生涯を通じて質素な生活を送り、大徳寺管長・是性宗般師とも親しく交友し、淡泊庵無徳とも号して仏の道にも深く帰依した。晩年はほとんで下関の田中町の自宅で過ごし、明治32年、80歳で死去した。
坂原五行(1871-1941)
明治4年田布施生まれ。名は六三郎。高瀬家から坂原家の養子となり下関に移り住んだ。大庭学僊に師事し、画会「五行会」を主宰し後進の指導にあたった。昭和16年、71歳で死去した。
対馬白龍(1904-1984)
明治37年生まれ。近藤樵仙・坂原五行に師事した。昭和30年下関日本画会を設立、下関で日本画の指導にあたった。昭和47年には下関市教育功労賞を受賞した。昭和48年日本表象美術協会の創立に常務理事として参加、昭和54年には日本清興美術協会の創立に参加して会長をつとめた。昭和59年、79歳で死去した。
山口(9)-画人伝・INDEX
文献:山口県の美術、下関の人物、防長の書画展-藩政時代から昭和前期まで、下関市立美術館所蔵品目録Ⅰ