江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

周防・長門国各藩の狩野派

長府藩では、笹山家のほかに諸葛家が御用絵師をつとめた。諸葛家初代の諸葛函溪(1780-1848)は、狩野陽信の養子になったが、のちに陽信に実子の狩野晴皐が生まれたため、家を出て新たに諸葛家をおこした。生涯独身で過ごしたため子がおらず、下関きっての文化人とされた広江殿峰(1756-1822)の孫を養子とし、後を継がせた。その子・諸葛信澄は教育者の道を歩み、東京師範初代校長などを歴任したが、32歳で早世した。萩藩では大楽朴水(不明-1769)が御用絵師をつとめ、子の探玄も跡を継いだ。岩国藩では桑原幽宅(不明-1707)に始まる一家が絵師をつとめた。

諸葛函溪(1780-1848)
安永9年豊浦郡綾羅木村生まれ。水川伝蔵の子。名は遠、字は子静。別号に耕運、受運がある。長府藩御用絵師。幼いころから画才を認められ、度会文流斎について学んだ。画業の進歩には目を見張るものがあり、寛政3年、12歳の時に画技を藩主の匡芳に認められて扶持をもらったほどだった。はじめ、長府藩の絵師・狩野陽信のもとに養子に迎えられたが、のちに陽信に実子・晴皐が生まれたため、享保元年に藩主の許しをもらって、新しく諸葛家をたてた。生涯、酒を愛し酒を友とする生活を送り、独身で過ごしたため、下関画壇で名をなしていた広江家から養子を迎えて諸葛家を継がせた。弘化3年、69歳で死去した。

諸葛秋錦(不明-不明)
名は力二郎、通称は力斎。別号に小車、日紅がある。下関の醤油醸造業・広江殿峰の孫。函溪の養子となって跡を継ぎ、長府藩御用絵師をつとめた。

広江殿峰(1756-1822
宝暦6年周防富田生まれ。諸葛秋錦の実の祖父。藤井家に生まれ、名は吉右衛門、字は文竜、諱は為盛。下関の醤油醸造業・伊予屋の養子となり、藩の御用商人をしていたことから広江を名乗ることを許された。画を牛島藍皐に、印章彫刻を富取益斎に学んだ。文化文政時代の下関きっての文化人とされ、当時下関を通過する学者、文人、画人たちに、自宅「西江堂」をサロンとして解放した。とくに頼山陽、田能村竹田とは終生深い交友を続けた。文政5年、67歳で死去した。

諸葛信澄(1849-1880)
嘉永2年長門長府生まれ。諸葛秋錦の子。教育者の道に進み、東京師範学校初代校長などを歴任した。明治13年、32歳で死去した。

大楽朴水(1696-1769)
元禄9年生まれ。名は常樹、はじめ村田平右衛門と称していた。狩野永信に師事して画を学び、剃髪して永伯と号した。萩藩主・吉就に仕え藩御用絵師をつとめた。のちに吉元の命を受けて狩野養朴に学び、朴水に改号した。元文4年、74歳で死去した。子の探玄も父を継いで法橋に叙された。

吉山常房(不明-1745)
幼名は万作、のちに友之進と改めた。大楽朴水に師事した。延享2年死去した。

吉山允慶(不明-不明)
通称は松之助。吉山常房の子。

桑原幽宅(不明-1707)
名は守澄、通称は權兵衛。岩国の醤家桑原玄佐の二男。画を斎藤等室に学び、李仙と号した。寛文6年江戸に遊び、狩野探幽の門に入り、画技を認められ幽宅の号を許された。延宝3年に探幽が命を受け新造内裏に画を描いた際に手伝い、法橋に叙された。帰郷後、岩国で一家をなした。宝永4年死去した。

山口(3)画人伝・INDEX

文献:防長人物誌、長府の学者画家俳人略伝、長府藩絵師笹山家記