江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

長府藩の粋な御用絵師・度会文流斎と笹山家

近世の周防・長門国では、強固な流派体制を誇った雲谷派が幕末まで続いたが、狩野派も各藩で御用絵師をつとめ、多くの絵師を輩出している。長府藩においては、狩野芳崖の父である狩野晴皐、のちに明治の教育者として名を成す諸葛信澄の父・諸葛秋錦、そして世話好きで粋な御用絵師として人気を誇った度会文流斎(不明-1816)が、長府三家として画風を競っていた。度会文流斎は、唐人物の妙手とされ、画技が優れていたばかりでなく、苦労人であり、世話人的な性格の人物だったらしい。文流斎はもともと、長府藩御用絵師をつとめた笹山家に生まれ、三代目を継ぐはずだったが、ある事情で出奔したため、笹山家は養子を迎え三代を継がせた。のちに文流斎は藩から別家として召し抱えられ御用絵師となった。文献の中には、三代養意と文流斎を同一とするものもあるが、「藩中略譜」などにより両者が別人であるという説が有力である。

度会文流斎(不明-1816)
長府藩御用絵師。二代笹山養意の子。名は美彦。出奔してのちに帰参して林洞玉と改め、のちに姓名を度会東明、諱を朗と改めた。長府藩主匡房、元義二代に仕え、唐人物を得意としたと伝えられる。文化13年死去した。

笹山養意(初代)(不明-1743)
長府藩御用絵師。江戸生まれ。狩野常信に師事、師の号を一字とって養意と号した。名は藤原常伝。別号に逸斎がある。長府藩主から法橋の称号を得た。寛保3年死去した。

笹山養意(2代)(不明-1780)
長府藩御用絵師。名は藤原甫伝、初代笹山養意・常伝の子。別号に一玄斎がある。父について学び、風景や人物を得意とした。安永9年死去した。

笹山養意(3代)(不明-1815)
長府藩御用絵師。名は藤原常惟または惟伝。2代笹山養意・甫伝の養子。別号に物馬斎がある。江戸の養川院惟信に学んだ。文化12年死去した。

笹山養意(4代)(不明-不明)
長府藩御用絵師。三代養意に子がなかったため紀州から養子を迎え、伊成栄伝と称し、梅屋と号した。

笹山養意(5代)(不明-1881)
長府藩御用絵師。名は勝意。別号に琴閑斎、雅旭がある。人物画を得意とした。五代養意の代にいたって、笹山家は初めて江戸から長府に居を移した。明治14年死去した。

度会東溟(不明-1850)
度会文流斎の子。美真東溟と号した。別号に洞鮫、東江、洋俄、堂呉秋がある。嘉永3年死去した。

度会春彦(不明-1888)
度会東溟の子。明治21年、73歳で死去した。

山口(2)画人伝・INDEX

文献:長府の学者画家俳人略伝、長府藩絵師笹山家記