米沢市に生まれた椿貞雄(1896-1957)は、幼いころから絵画に親しみ、18歳の時に画家を志して上京、その後まもなく岸田劉生(1891-1929)の個展を見て感銘を受け、19歳で劉生に師事した。劉生は椿を若い友人として迎え、盟友の木村荘八や武者小路実篤らを紹介した。椿は劉生の「西洋に由来する油絵で日本人の心を描く」という理想に共鳴し、劉生とともに写実を通した精神的な「内なる美」を表現するという独自の美術運動を展開した。
椿は、劉生が鵠沼に転居すると自身も移り住んで行動をともにするなど、常に劉生の身近にあり、劉生の影響を強く受けた。そのような椿に対して、劉生の模倣、亜流であるとの批判もあったが、悩む椿に対して劉生は、描く対象を素直に見れば自分のような画になるのだ、と擁護した。
38歳で劉生が急逝した後の椿は、その影響力から離脱しながらも、劉生の理念の正統な継承者として、精神的な基盤には常に劉生を掲げ、61歳の生涯を閉じるまで、写実を基礎とした、東洋の心と美の表現を追求し続けた。
椿貞雄(1896-1957)つばき・さだお
明治29年米沢市生まれ。家業は土建業。早世した医学生の兄の影響で水彩画を始め、米沢中学校在学中に水彩画の団体「紫星会」の結成に加わった。大正3年に上京し、正則中学に入学。岸田劉生の個展を見て感銘を受け、大正4年から劉生に師事し、同年中学を中退して画業に専念した。同年第15回巽画会に出品。また、岸田劉生、木村荘八らと草土社結成に参加し、創立同人となった。大正7年から9年まで再興院展に出品。大正11年には春陽会の創立に参加して客員となった。昭和2年武者小路実篤の主唱による大調和展創立に加わり、春陽会を退会。昭和4年大調和展解散に伴い河野通勢とともに国画会会員に招かれ、以後同展に出品を続けた。昭和7年にはパリに渡りギャラリー・カルミンで個展を開催し、帰国後に滞欧作品展を東京と米沢で開催した。戦後の昭和24年には千葉県美術協会結成に尽力した。昭和32年、千葉において、61歳で死去した。
山形(30)-画人伝・INDEX
文献:生誕100年記念椿貞雄展、生誕120年椿貞雄展 : 椿貞雄と岸田劉生、岸田劉生と椿貞雄 求道の画家