江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

「もうひとりの鮭の画家」と呼ばれた酒田洋画の先駆者・池田亀太郎

左(作品1):池田亀太郎「塩鮭」
中(作品2):池田亀太郎「川鱒図」
右(作品3):高橋由一「鮭」

日本近代洋画の開拓者として知られる高橋由一(1828-1894)は、鮭の画家とも称され、多くの鮭図を描いており、東京藝術大学所蔵の「鮭」(作品3)は国の重要文化財に指定されている。ところが、もうひとり「鮭の画家」と呼ばれた画家がいた。それが、山形県酒田市出身で、酒田ではじめて洋画を描いたとされる池田亀太郎(1862-1925)である。亀太郎が描いた「川鱒図」(作品2)は、その見事な出来ばえから、長年高橋由一の作品とされていた。

池田亀太郎が高橋由一と交流し教えを受けたかどうかを示めす資料は残っていないが、由一は山形地方を少なくとも3度訪れており、明治17年には酒田に長期間逗留しいる。その時の両者の年齢が、由一56歳で、亀太郎22歳であることから、接触の可能性はあるが定かではない。ただ、すでに画家を志していたであろう亀太郎が、由一の作品を見ていた可能性は高く、由一の画風が大きく影響されていることは確かであるといわれる。

その後、亀太郎は東京に出て写真とクリーニングの技術を習得したのち、酒田に帰って写真屋とクリーニング屋を始めたが、もともと志は油彩にあり、写真は肖像画を描くために習ったものといわれている。やがてクリーニングの技術は息子に伝え、自身は船場町近くに写真館を開業した。ここが酒田の写真館の草分けとされる。

美術評論家・洲之内徹は、昭和51年(1976)8月に発行された「芸術新潮」で、連載「気まぐれ美術館」において「もうひとりの鮭の画家」と題して、池田亀太郎について取り上げている。そこには、洲之内が酒田の本間美術館を訪れた際に池田亀太郎のことを知り、帰京してから調べたところ、それまで高橋由一作とされていた「川鱒図」が、亀太郎作の可能性があるのではないかと推測したことが記されている。

その根拠のひとつが、この作品の裏面に「呈上 賀盆 佐藤宗雄君 池田亀太郎」と記されており、当時酒田市内で写真業を営んでいた佐藤宗雄に亀太郎が送ったものと読み取れるからである。また、高橋由一の鮭図は、みな頭を上にしているのに対し、この「川鱒図」だけが頭を下にしている。これは、昔から鮭の頭を下にしてぶら下げる保存法が伝わる庄内地方の画家によって描かれたことを示すものではないかとしている。

この記事からおよそ10年ほどの調査を経て、「川鱒図」は池田亀太郎の作品であると認定された。

池田亀太郎(1862-1925)いけだ・かめたろう
文久2年酒田生まれ。池田亀蔵の長男。上京して写真術を学び、写真屋を開いた。酒田における洋画の先駆者として知られ、多くの肖像画、鮭の絵などを描いた。作品には、酒田日枝神社拝殿の「伊佐治八郎像」や本間家本邸の「日本海海賊」などがある。大正14年、63歳で死去した。

山形(29)-画人伝・INDEX

文献:庄内の美術家たち、酒田市史史料篇第7集、芸術新潮(1976.08)