江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

長崎南画を源流に持つ寒河江の日本画家

阿部曽岳「羅浮仙図」

明治期の寒河江地方の日本画家の源流をたどると、長崎南画の鉄翁祖門に行きつく画系がある。その始まりは、小泉の長泉寺十一世住職の土田鉄船(1812-1879)で、長崎まで行って鉄翁に南画を学んでいる。その後、師匠から「鉄船」の号を許され、鉄翁の作品を携えて万延元年(1860)に帰郷した。元治元年、51歳の時に巨海院住職となるが、その間、多くの後進の育成をした。主な門人としては、柿本柿融、大久保月船、菅井邑岳、国井素堂らがいる。

鉄船門下のなかでも第一の高弟とされるのが柿本柿融(1836-1897)である。柿融は土田鉄船に画を学んだあと、京都の智積院で7年間仏学を修め、そのかたわら画を学んだ。帰郷して惣寺寺三十一世を継いだが、明治3年に寺院の借財を整理して廃寺、還俗して神官となり、再びかつての師匠・鉄船に長崎南画を学んだ。柿融も国井忠吉、小野華江、阿部曽岳、岸融岳、大沼杏村ら多くの門人を育てている。

土田鉄船の孫弟子となる阿部曽岳は、家業の菓子作りを手伝うかたわら、柿本柿融に画を学んだ。柿融の没後は、京都に出て四条派の森川曽文に入門、師の一字をもらい「曽岳」と号した。さらに、谷口香嶠に師事して京都で活動、内国勧業博覧会など各種展覧会で入選入賞を果たした。明治37年には京都を離れて帰郷、寒河江で制作していたが、病を得て40歳で死去した。歴史画が得意で、寒河江市内に多くの作品が残っている。

阿部曽岳(1876-1915)あべ・そがく
明治9年六供町生まれ。阿部重助の二男。本名は熊吉。別号は対月軒。実家は菓子業「丸屋」。幼いころから画を好み、高等小学校を卒業後、寒河江の柿本柿融の塾に通い、絵の勉強をはじめ、号を雅堂とした。明治31年、前年の柿融の死を契機に京都に出て森川曽文の塾に入門し「曽岳」と号し、字を峻とした。第2回全国絵画共進会で一等褒状を得て、第7回日本絵画協会・第2回日本美術院連合絵画共進会入選などで入選した。明治37年京都を去り、寒河江に帰郷。明治38年寒河江の宿龍院の襖絵20枚を描いた。43年末頃から病を得て、大正4年、40歳で死去した。

山形(25)-画人伝・INDEX

文献:寒河江市史下巻(近代編)、大江町史(近現代編)、山形県の文化財、院展にみる山形の美術100年、郷土日本画の流れ展