現在の長井市に生まれた菅原白龍は、9歳頃から『北斎漫画』を見て独学し、11歳の時に初めて長沼月峰、渡辺玄渓について南画を学んだ。その後家出して江戸に行き熊坂適山に師事、その後も長井と江戸を往復しながら諸国を巡り、各地の画人、文人たちと交流して画技を高めた。
画風は南画を主としていたが、従来の南画家が粉本をもとに見たこともない中国の山水を型通りに描いているのに反発し、「見ぬものを描くは偽りである」と写生の重要性を主張、日本の南画を創出するため、故郷の最上川、日光、富嶽など、直接目にする日本の自然を描き、独自の画境を開拓していった。
日本画革新運動がフェノロサや岡倉天心らによって起こると、そんな新しい時代の風潮も真摯に受け止め、西洋風の空間構成をとり入れるなど研究を重ねた。明治18年に日本画革新の新派が第1回鑑画会を開催すると、南画家としてただ一人出品、明治29年に天心らが結成した日本絵画共進会には第1回から参加、第2回展では川端玉章、橋本雅邦、山名貫義とともに審査員をつとめるなど、日本画革新運動のなかで日本的南画の創造を模索した。
菅原白龍(1833-1898)すがわら・はくりゅう
天保4年生まれ。菅原道栄の長男。本名は源暁。明治15年から道雄、17年から白龍の号を本名とした。別号に大岳、梵林、日橋隠士、爽気龍人、五石十水楼、和楽斎などがある。9歳のころから『北斎漫画』を見て独学し、儒学や詩文は米沢藩の儒者・山田蠖堂の教えを受け、11歳の時に長沼月峰、渡辺玄渓について南画を学んだ。寛永2年故郷を出奔し、諸地方を回り、佐藤竹皐、蠣崎波響、熊坂適山らに学んだ。文久2年江戸に出て、詩人の大沼枕山や福島柳圃に教えを受け、洋画を研究していた川上冬崖とも親しく交友した。明治3年再び上京し奥原晴湖を訪れ、晴湖の紹介で木戸孝允らと交流。明治10年第1回内国勧業博覧会で褒状。明治17年から東京に居を定め、同年第2回内国絵画共進会で銅賞を受けた。同年渡辺小華らと東洋絵画会を組織し、機関誌「東洋絵画叢誌」を発行、その後「絵画叢誌」と改名した。明治18年新派系の第1回鑑画会大会に出品。明治22年、日光で遊歴画家としていた寺崎広業を東京に伴い「絵画叢誌」に挿絵を描かせるなどして次代を担う青年画家たちを育成した。明治26年シカゴ・コロンブス博覧会に木版多色刷りの風景画集「日本勝景」を出品、銅牌を受賞した。明治29年岡倉天心らが結成した日本画革新派の日本絵画共進会に第1回展から参加、第2回展では、天心から川端玉章、橋本雅邦、山名貫義とともに4人の審査員のうちの一人に推挙された。明治31年第4回展の審査員を病のため辞退、この頃から食道がんが悪化し、死の1週間前に寺崎広業に正装の自画像を描かせた。画論『白龍琑談』がある。明治31年、65歳で死去した。
山形(23)-画人伝・INDEX
文献:院展にみる山形の美術100年、郷土日本画の流れ展、置賜の歴史、山形の屏風絵展、再発見日本の書画の美、天童美術の流れ展