江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

庄内地方を代表する画僧・市原円潭

市原円潭「閻魔王宮八大地獄図(十王図)」3幅のうち左幅部分 鶴岡・常念寺蔵

酒田の商家に生まれた市原円潭は、幼いころから絵に興味を示し、15歳で江戸に出て、24歳から28歳まで狩野探淵守真のもとで狩野派の画法を学んだ。その後郷里に帰り、鶴岡に居住していたところ、常念寺の依頼で法然上人画伝十二幅を描くこととなり、そのことが仏門に入る契機となったとみられる。

嘉永4年、鶴岡の大督寺に入り剃髪して名を円潭に改め、ここに3年、さらに江戸小石川の伝通院に移り仏道修業につとめ、その後、京都に上り知恩院に入り4年間滞在した。

その頃の京都は、幕末の混乱で騒然としていた。円潭は、勤皇の志士でもあった画家、日根対山、村山半牧、藤本鉄石、冷泉為恭らと交流して画技を高めたが、仏門に帰依していたためか、政治的運動に巻き込まれることはなく、中国絵画の研究や、古美術の模写などにつとめた。

文久3年、庄内に戻り、西田川淀川寺の住職となり、庄内の人びとに請われるままに絵を描き、晩年を過ごしたという。

市原円潭(1816-1901)いちはら・えんたん
文化14年酒田生まれ。市原平三郎の三男。名は祐助。別号に淵潭守純、月山人、浮木叟がある。鍛冶橋狩野家・狩野探淵守真の門人。嘉永4年鶴岡大督寺で仏門に入り、その後江戸の伝通院、京都の知恩院で修行、絵画研究にも励み、日根対山、村山半牧らと交友し、冷泉為恭に大和絵を学んだとも伝わっている。文久3年帰郷し、淀川寺の住職となった。明治34年、85歳で死去した。

山形(11)-画人伝・INDEX

文献:酒田の今昔、庄内の美術家たち、鶴岡市史(下巻) 、郷土日本画の流れ展、酒田市立資料館開館20周年記念図録