江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

庄内藩の御用絵師・三村常和

左:三村常和(初代)「神農像」
右:三村常和(2代)「赤壁図」

元和8年、酒井忠勝が信州松代から庄内に入部し、鶴ケ岡城を居城と定められて以来、城内は着々と整備されていったが、本丸の建物が完成するのは30年後の承応2年のことだった。ちょうどこの年、前々年の慶安4年に江戸で庄内藩御用絵師として召し抱えられていた三村喜兵衛が、藩主に従って庄内に下っている。喜兵衛は、狩野探幽の門人で、のちに剃髪して常和と号した。鶴ケ岡城の襖絵は、この常和の筆とされる。

二代常和は、延宝6年家督を継いで、天和3年に剃髪して常和を名乗った。宝永元年故あって藩の絵師を罷免され、名を瑞山と改めて御伽を命じられた。三代常和は、二代常和の養子となり家を継いだが、画業はいたって拙かったと伝わっており、三代にして三村の姓は途絶えた。

庄内藩の御用絵師は、三村家についで青山盛竺が召し抱えられた。盛竺には子がいなかったため、狩野裕清の門人で新庄越前守の家臣・大縄勝右衛門の子・治助が寛延3年あとを継いだ。さらに宝暦6年には狩野派絵師・鹿島探春が召し抱えられ、以来鹿島家が幕末に至るまで御用絵師をつとめた。

三村常和(初代)(不明-1678)みむら・じょうわ
庄内藩御用絵師。はじめ喜兵衛と名乗り、慶安4年江戸で酒井忠当に召し抱えられた。狩野探幽の門人で、のちに剃髪して常和と号した。承応2年藩主に従って下向して以来、度々庄内に下ったという。鶴ケ岡城の襖絵は常和の筆と思われる。和歌にも長じたという。延宝6年死去した。

三村常和(2代)(1644-1621)みむら・じょうわ
正保元年生まれ。本名は治太夫。春風軒と号し、御用絵師を継いだが、子どもがいなかったため、貞享年間に三浦良錦という者を養子とし、ついで宝永元年に絵師を免ぜられて「お伽」と号した。その後も絵筆をとっていたらしく、宝永2年の正月には宝船の絵を献じている。享保6年、78歳で死去した。

三村常和(3代)(不明-不明)みむら・じょうわ
はじめ三浦良錦と称した。二代常和の養子となり家を継いで三村常和を名乗ったが、画業はいたって拙かったという。60歳の時に狩野探信の弟子・探岸の子・常軒を養子とすることが許されたが、寛保2年63歳の時に遂に出奔したので、養子常軒も永遠の暇を賜った。

山形(7)-画人伝・INDEX

文献:鶴岡市の文化財、鶴岡市史(上巻)、郷土日本画の流れ展