江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

野際白雪と門人たち

野際白雪「那智懸泉図」

野呂介石の高弟で、紀伊藩のお抱え絵師を務めた野際白雪(1773-1849)は、介石に学びながらも、南画だけでなく、狩野派や四条派風の花鳥画も学んだようで、研究熱心で画域が広かった。また、多くの門人を育てており、その門には紀伊藩士の鈴木景福、鍵野石耕、谷口南洲らが学んでいる。

野際白雪(1773-1849)のぎわ・はくせつ
安永2年生まれ。紀伊藩のお抱え絵師。名は徴、字は伯亀。別号に石湖がある。居を群玉齋と称した。父は紀伊藩御先手の同心でのちに浪人となった。野呂介石に師事し、高弟と称された。はじめ表具屋を営んでいたため、壮年になってからも古画名蹟に接する機会があるごとに、それを自らの研究の良材に画域を広げていったという。師である介石の死後、介石が生前に語った内容を『介石画話』にまとめた。嘉永2年、77歳で死去した。

野際蔡眞(不明-1871)のぎわ・さいしん
名は眞。別号に石居、石湖、白鴎山人がある。本姓の松田氏を出て野際家を継ぎ、白雪の次女と結婚した。養父の後を受けて紀伊藩の絵師となった。明治4年、53歳で死去した。

野際蔡春(不明-不明)のぎわ・さいしゅん
名は春、字は白亀。野際蔡眞の子。画法を父に学び、出藍の誉れの声もあったが、父に先だって夭折し、後を継ぐものはいなかった。

野際小鶴(不明-不明)のぎわ・しょうかく
野際白雪の妻。夫に師事した。

野際梅亭(不明-不明)のぎわ・ばいてい
野際白雪の娘か、蔡眞の妻とみられる。父・野際白雪に師事した。

鈴木景福(不明-不明)すずき・けいふく
通称は治右衛門。紀伊藩士で御留守居番を勤めた。風雅を愛し、野際白雪に師事して花鳥などを描いた。白雪の画風をよく伝えている。

鍵野石耕(不明-不明)かぎの・せきこう
名は長純、通称は幸左衛門。紀伊藩士。野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

谷口南洲(不明-不明)たにぐち・なんしゅう
通称は房之助。紀伊藩士。野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

久保田矮松(不明-不明)くぼた・いしょう
通称は彌左衛門。紀伊藩に仕え表御右筆組頭を勤めた。野際白雪に師事した。元寺町に住んで余技に画をよくした。

畔柳孤峰(不明-不明)くろやなぎ・こほう
通称は甚左衛門。紀伊藩に仕えて小普請支配役を勤めた。風雅を愛し、野際白雪に師事して、余技に画を描いた。

石本雪溪(不明-不明)いしもと・せっけい
明治の人。名は芳隆、初号は溪樵。野際白雪に師事した。和歌山西紺屋町の表具師。津田香の著書『木國名勝詩誌』に挿絵を描いている。

瀬本石梁(不明-不明)せもと・せきりょう
天保頃の人。石梁山人と号した。野際白雪の門に学んで山水をよくした。

岩橋鷺洲(不明-不明)いわはし・ろしゅう
名は藤蔵、岩橋屋と称した。野際白雪に師事して山水を描いた。

池部絢霞(不明-不明)いけべ・じゅんか
通称は熊太郎。野際白雪に師事して山水を描いた。師の画風に似ていた。

稲生松林(不明-不明)いなお・しょうりん
名は要人、通称は加兵衛。野際白雪に師事して山水を描いた。

富田翠霞(不明-不明)とみた・すいか
通称は與兵衛。野際白雪に師事して山水を描いた。

朝陽(不明-不明)ちょうよう
本姓は不明。通称は次郎四郎。新通に住んで紋書を業とした。野際白雪に師事した。

小川恒貞(不明-不明)おがわ・こうてい
天保時代の人。名は秀平。野際白雪に師事した。

橘翠徑(不明-不明)たちばな・すいけい
名は為綱。野際白雪に師事した。

中村素行(不明-不明)なかむら・そこう
名は玄同。野際白雪に師事した。

中筋東川(不明-不明)なかすじ・とうせん
海草郡禰宜中筋の人。野際白雪に師事した。

中川石峰(不明-不明)なかがわ・せきほう
名は正是。野際白雪に師事して、墨竹などをよくした。

中井石雄(不明-不明)なかい・せきゆう
名は與市。野際白雪に師事した。

福富皐松(不明-不明)ふくとみ・こうしょう
字は石眞、通称は半左衛門。野際白雪に師事した。

和歌山(10)画人伝・INDEX

文献:紀州郷土藝術家小傳