江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

写生行脚を続け求道者のように山を描いた村嶋酉一

村嶋酉一「薬師」富山県蔵

村嶋酉一(1897-1973)は、富山市総曲輪丸の内に生まれ、富山中学校卒業後に尾竹越堂をたよって上京し、書生として寄宿しながら東京美術学校日本画科に入学、結城素明に師事した。また、同校で画業に励む一方で、同郷の先輩・加藤雨月とともに、学校対抗の相撲の選手としても活躍した。

大正11年、同校在学中に第4回帝展に初入選し、卒業後も帝展で受賞を重ね、昭和11年の改組第1回帝展では実質最高賞だった推奨を受けた。しかし、帝展の改組騒動で美術界は大紛糾の渦中で、会期中の2日目に2.26事件が起こり、3日目には戒厳令が発令されるなど不穏な空気漂う展示となった。

その後も新文展に出品し、戦後は日展に出品したが、昭和24年以降は中央展への出品をやめ、写生行脚を続け、能登半島や剣岳、薬師岳、立山連山など、郷里の山や海を題材に制作し個展を中心に発表した。また、禅に関心を示し、龍澤寺の玄峰老師や中川宋淵師、国泰寺の江南軒大喜老師らと親交を重ね、禅の道に傾倒していった。

ひたすら山を描き続けた酉一だが、ただ山に画題を求めていたのではなく、山にいると心が洗われるような気持ちになるといい、求道者のように山に登っていたという。晩年は山小屋で暮らしたいと願っていたという。

村嶋酉一(1897-1973)むらしま・とりいち
明治30年富山市生まれ。本名は酉一郎。大正6年富山中学校を卒業後、尾竹越堂をたよって上京。大正8年東京美術学校日本画科に入学、結城素明に師事した。在学中の大正11年第4回帝展に初入選。翌年東京美術学校を卒業。昭和7年第13回帝展特選。昭和11年改組第1回帝展で実質最高賞の推奨を受賞。禅に関心を示し、昭和17年頃には高岡の国泰寺を訪れている。昭和19年文部省戦時特別展に出品。この年婦中町に疎開し翌年まで滞在。昭和24年第5回日展を最後に中央展への出品をやめ写生行脚を続け、郷里の山海を題材にした作品を制作、個展を中心に活動した。昭和58年、76歳で死去した。

富山(24)-画人伝・INDEX

文献:村嶋酉一展、氷見にゆかりの作家たち、郷土の日本画家たち(富山県立近代美術館)、富山の文人画展、1940年代 富山の美術、現代美術の流れ[富山]、氷見市立博物館館蔵品展2