江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

写実に江戸琳派の装飾性を加味し絢爛とした画風を展開した石崎光瑤

石崎光瑤「燦雨」(上が右隻)南砺市立福光美術館蔵

石崎光瑤(1884-1947)は、富山県福光町(現在の南砺市)に生まれた。生家は藩政期から続く名家で、蔵宿業などの事業を手広く営んでいた。父親は漢籍をよくし、雅楽や俳諧なども嗜む教養人で、幼いころから画才を発揮していた光瑤を、12歳になった年に金沢に滞在していた江戸琳派の山本光一の門に入れた。ここで受けた2年余りの薫陶が、その後の光瑤の画業に大きく影響することになる。

光一のもとで琳派を学び、野山の写生に励んでいた光瑤だったが、家業の衰退により15歳の時に神戸への転居を余儀なくされ、その後京都に上り19歳で竹内栖鳳の門に入った。栖鳳はヨーロッパから帰国して間もない頃で、円山四条派の伝統的な技法に、西洋美術の写実性を融合させた画風を模索していた。後進の育成にも熱心で、写生を推奨し各自の独自性を重視していた。

光瑤も栖鳳のもとで自らの芸術を模索し、伝統と革新を見据えながら、写実を旨とする栖鳳の薫陶と、若き日に山本光一から学んだ琳派の装飾性を昇華させ、絢爛とした画風を展開していった。文展、帝展でその成果を発表して受賞を重ね、帝展、新文展で審査員をつとめるなど画壇の中心で活躍した。また、京都市立絵画専門学校で20年以上教鞭をとるなど、後進の育成にもつとめた。

京都画壇で実績を残した石崎光瑤に対し、同時期に東京で活躍した富山出身の日本画家に鷹田其石(1871-1946)がいる。其石は、富山県生地町(現在の黒部市)に生まれ、上京して東京美術学校に入り、岡倉天心や橋本雅邦、川端玉章の薫陶を受け、骨法用筆の技法を学んだ。同校研究科に進んでからはインド美術から日本の推古・天平時代までの古画を研究した。

同校卒業後は、山梨や栃木で教員をしていたが、明治32年に退職してからは東京小石川に居を構え、画室を如是庵、忘岡堂と号し、世間と隔絶した芸術世界を築いていった。公募展も明治40年の第1回東京勧業博覧会以降は出品せず、書を読み大自然に遊び、東洋的老荘思想に親しみながら絵を描き続けた。

石崎光瑤(1884-1947)いしざき・こうよう
明治17年富山県福光町(現在の南砺市)生まれ。本名は猪四一。生家は藩政期より続く名家。明治22年金沢滞在中の江戸琳派の絵師・山本光一に師事し「光瑤」の号を受けた。明治36年京都の竹内栖鳳に入門。明治37年第9回新古美術展に初入選、翌年の第10回展で受賞。大正元年第6回文展に初入選。大正3年第8回文展で褒状を受け、宮内省買上げとなった。大正5年に印度中期旅行し、その成果を大正7年の第12回文展と翌年の第1回帝展で発表し連続特選となった。その後も帝展、新文展で4度審査員をつとめた。また、大正14年京都市立絵画専門学校助教授に、昭和11年同校教授となり20年以上教鞭をとった。昭和22年、63歳で死去した。

鷹田其石(1871-1946)たかた・きせき
明治4年富山県生地町(現在の黒部市)生まれ。幼名は亀之助。早くから画才を顕し、魚津町立明理小学校高等科を卒業後に上京、明治23年に東京美術学校に入学。明治26年同校研究科に進んだ。明治27年の卒業後は山梨県立甲府中学校教諭となった。明治28年日本青年絵画協会の絵画共進会に出品し受賞。明治31年に栃木県宇都宮中学校の教諭となったが、2年後に退職して東京小石川に居を構えた。明治35年岡不崩らと「真美会」を組織。明治40年の第1回東京勧業博覧会には評議員となって出品したが、以降公募展には出品しなかった。昭和20年、強制疎開によって故郷富山県黒部市に帰り、翌21年、74歳で死去した。

富山(12)-画人伝・INDEX

文献:花鳥画の煌めき 没後70年 石崎光瑤展、郷土の日本画家たち(富山県立近代美術館)、南砺市ゆかりの作家展1、越中百年美術回顧展、1940年代 富山の美術、富山の美と心、鷹田其石著作集