結城正明(1834-1904)は、越中国富山柳町(現在の富山市柳町)で金沢藩士の子として生まれ、19歳で江戸に出て木挽町狩野家の狩野勝川院雅信に入門した。同門には狩野芳崖、橋本雅邦、木村立嶽らがいた。江戸城の本丸が焼失し、その新築の際には師らとともに障壁画の制作に携わるなど、狩野派の絵師として実績を積んでいった。
しかし、明治維新後には狩野派は衰退し、正明も日本画制作のみに従事することはできず、職を転々としたのち、新しい時代に対応するため、明治6年頃に同門で洋画と銅版画も学び、陸軍省で石版画も研究していた青野桑州から銅版画の技術を学んだ。
正明の銅版画制作の技術はすぐに上達し、画技に加え、腐蝕法と直刻法による銅版技術に確かなものがあり、明治10年の第1回内国勧業博覧会に出品した「ヒポクラテス像」は、当時としては「目を見張るような迫真的な仕上がり」と評判になり、多くの画家たちによる模写が残されている。
また、それ以上に技術を発揮したのが地図類の制作で、「大日本全図」「千葉県管内実測図」などを手がけ、大きな実績を残している。しかし、明治21年に東京美術学校が開校し、その日本画科の教官に採用されたことから日本画に専心するようになり、銅版画関連の仕事は途絶えた。
その後は、東京美術学校で教えるとともに、自宅で美校受験のための予備校のような画塾を開き、横山大観や菱田春草らを教えた。明治24年には東京美術学校の助教授となるが、明治29年に非職を命じられ、その後は同校との関係は途切れている。
結城正明(1834-1904)ゆうき・まさあき
天保11年越中国富山柳町(現在の富山市柳町)生まれ。加賀藩士の子。本姓は壺川。安政2年江戸に上り狩野勝川院雅信に入門した。明治維新後、職を転々としたのち、銅版画の技術を習得した。銅版画の代表作に「ヒポクラテス像」がある。明治10年代は内国勧業博覧会や内国絵画共進会に出品した。明治17年に鑑画会が結成されると、同門の狩野芳崖、橋本雅邦、木村立嶽らとともに参加し、フェノロサが唱えた線、濃淡、色彩の原理を考慮した制作を試行しはじめた。明治21年、東京美術学校開校にともない日本画科の教官を拝命した。教え子に横山大観、菱田春草らがいる。明治37年、65歳で死去した。
富山(08)-画人伝・INDEX
文献:日本美術院百年史1巻上、江戸・明治の視覚