谷口藹山(1816-1899)は、越中国新川郡鉾ノ木村(現在の立山町)の農家に生まれ、幼いころ富山町の分家に養子に出た。18歳の時に江戸に出て谷文晁の門に入り、文晁とその門下の高久靄厓に師事した。26歳の時に父が死去したため一時帰郷し、翌年京都に出て貫名海屋に師事し、大坂の篠崎小竹や岡田半江にも指導を受けた。
29歳の時に西方に向かい、31歳の時には日田の広瀬淡窓の咸宣園に入門して漢詩を学び、帆足杏雨、平野五岳らとも交流して1年余り滞在した。その後も長崎などを巡遊して5年余りして京都に戻り、その後は京都に居を定め、再び貫名海屋に師事し、安政2年京都御所造営の際には、同郷の吉田公均とともに障壁画を描く画工の一人に選ばれた。
また、草場佩川ら多くの文人や画家たちと交流して画技を高め、京都に集まった頼三樹三郎、松本奎堂、西郷隆盛、大久保利道ら勤皇の志士たちとも交流した。明治13年に京都府画学校(京都市立芸術大学の前身)が創立された際には南宗担当の教員となって後進の指導にもつとめ、南画の普及に貢献するとともに、晩年まで旺盛な制作活動を続けた。
谷口藹山(1816-1899)たにぐち・あいざん
文化13年越中国新川郡鉾ノ木村(現在の立山町)生まれ。幼名は貞。生家は代々の農家。幼時に富山に養子に出た。天保4年江戸に出て谷文晁、高久靄厓に師事した。天保11年一時帰郷し、天保13年京都に出て貫名海屋に師事。以後5年余り大坂、長崎などを巡遊し、弘化4年京都に居を定めた。安政2年御所造営に際し障壁画を描く画工の一人に選ばれた。明治に入り、京都府博覧会、内国絵画共進会などで受賞を重ね、明治13年には京都府画学校の創設に関与、南宗担当教員をつとめた。明治23年、28年の第3回、第4回内国勧業博覧会でも受賞するなど、晩年まで旺盛な制作を続けた。明治32年、84歳で死去した。
富山(05)-画人伝・INDEX
文献:南画家谷口藹山の生涯、郷土の日本画家たち(富山県立近代美術館)、富山の文人画展、越中百年美術回顧展、越中の美と心