江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岸駒の跡を継いだ岸岱と岸派の画家

岸岱「虎図」(模写、原図は岸駒)富山市佐藤記念美術館蔵

岸駒を祖とする岸派は、岸駒没後は、二代目・岸岱、同時代に活躍した岸良、三代目・岸連山へと受け継がれた。流派としての岸派は、四代目の岸竹堂か連山の子・岸九岳で途絶えたとされるが、岸派の流れを汲む画家たちが内国絵画共進会など明治の展覧会に多数出品しており、明治期にはまだ岸派の命脈を保っていたことがうかがえる。

岸派の二代目を継いだ岸岱(1782or1785-1865)は、岸駒の長男として京都に生まれ、幼いころから父に作画の手ほどきを受け、鳥獣を描くことを得意とした。はじめ画才が乏しいことを父に責められたというが、岸派の頭領として研鑽を積み、他派の画風を融合しながら岸派の画法を次代につなぎ、長命なこともあり、岸派の隆盛に貢献した。

岸駒には、三男二女がいたが、長男の岸岱と長女の貞を残し、二男、三男、二女は早世した。長女の貞は、岸成を婿に迎えて一女春をもうけたが、岸成が早死にしたため岸良(1798-1852)を後婿とした。また、若くして岸駒に師事した岸連山(1804-1859)は、貞の娘春(岸駒の孫)と結婚して婿養子となり、三代目を継いだ。

四代目の岸竹堂(1826-1897)は、彦根に生まれ、はじめ彦根の絵師・中島安泰の門に入り、のちに狩野永岳の門に入ったが、天保14年に岸連山の指導を受けるようになった。連山には実子の九岳がいたが、竹堂を娘素子の娘婿として迎え、岸派の後継者とした。

岸岱(1782or1785-1865)がんたい
天明2年(天明5)京都生まれ。岸派二代目。岸駒の長男。本姓は佐伯、岸氏。字は君鎮、名は国章、のちに昌岱。別号に卓堂、虎岱、紫水、同功館などがある。父岸駒に画法を学んだ。文化5年筑前介に任じられ、嘉永6年筑前守に叙せられた。また、父の跡を継いで有栖川家御用人となった。京都御所や香川県琴平町の金刀比羅宮奥書院に多くの障壁画を描いた。岸岱の画系は、長男・岸慶、二男・岸礼、三男・岸誠、さらに岸礼の長男・岸愼と続いた。元治2年、81or84歳で死去した。

岸礼(1816-1883)がんれい
文化13年京都生まれ。岸岱の二男。名は持礼、字は仕弟。別号に雲峰、化鵬、白雲館などがある。父岸岱に画法を学んだ。御所に仕えて近衛府官人となり岸大路の姓も名乗った。明治16年、68歳で死去した。

岸良(1798-1852)がんりょう
寛政10年京都生まれ。岸駒の婿養子。本姓は濱谷氏。名は昌良、字は子良、または子良。幼名は五郎、俗称は雅楽助。別号に画雲楼、乗鶴がある。岸駒に師事し、画才を見込まれて、岸駒の長女・貞の後婿として迎えられ養子となった。有栖川宮家の家臣となり雅楽助を名乗った。嘉永5年、55歳で死去した。

岸恭(1815-1874)がんきょう
文化12年生まれ。岸良の実子。父岸良に画法を学び、人物および花鳥画を得意とした。明治7年、46歳で死去した。

岸連山(1804-1859)きし・れんざん
文化元年京都生まれ。岸派三代目。岸駒の養子。本姓は青木氏。名は徳、字は士道または士進、幼名は徳次郎。別に文進と称し、萬象楼と号した。岸駒に師事し、技量を見込まれて養子となった。安政6年、56歳で死去した。

岸九岳(1845or1852-1921)きし・きゅうがく
弘化2年京都生まれ(嘉永5年生誕説もある)。岸連山の実子。名は英。父連山と岸竹堂に画法を学び、京都美術学校で教鞭を執った。後に東京へ移住した。明治21年に竣工した明治宮殿の常御殿に杉戸絵「木芙蓉図」「枯木ニ水菟図」を描いた。大正10年、77歳で死去した。

岸竹堂(1826-1897)きし・ちくどう
文政9年彦根生まれ。岸派四代目。岸連山の養子。本姓は寺居氏、名は昌禄、字は子和、幼名は米吉、通称は八郎。別号に残夢、眞月、虎林などがある。はじめ狩野派の中島安泰に学び、安泰の勧めで天保13年京都に上り狩野永岳に師事したが、狩野派の保守的な画風に満足できず、天保14年から岸連山に師事し、連山の娘素子の娘婿となり、連山没後に岸家を継いだ。また、呉服商の千總十二代西村總左衛門の依頼を受け友禅の下絵を描いた。明治21年京都府画学校教授となり、明治29年帝室技芸員となった。明治30年、72歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(岸竹堂)

富山(02)-画人伝・INDEX

文献:写された絵遺された絵-岸駒・岸岱岸派絵画資料をめぐって、岸駒-没後一五〇年記念特別展、岸派とその系譜、越中の美と心、古今日本書画名家辞典