江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

鳥取藩の学制改革につとめた正墻適処とその高弟・山内篤処

正墻適処「山水図」

鳥取藩の藩医の子として生まれた正墻適処(1818-1875)は、はじめ建部樸斎に経学を学び、のちに江戸、大坂に出て学を修め、多くの文人と交流した。詩文を好み、書画をよくし、温雅な作品を多く残している。諸国を遍歴したのち、36歳の時に鳥取に戻り、藩儒官となって学制改革や政務にあたり、藩士の教育にあたった。好学の青年たちがその門を叩き、その中でもっとも早く入門したのが、高弟とされる鳥取藩士・山内篤処(1835-1885)である。篤処もまた詩書画をよくし、絵は個性的で激しいものがあったという。

正墻適処(1818-1875)
文政元年鳥取生まれ。藩医泰庵の長男。名ははじめ新蔵、のちに薫。別号に朝華、研志堂がある。少年のころは武をもって身を立てようと志し、剣道、槍術を専念していたが、たまたま槍術の師の訓戒を受け、悟るところがあって建部樸斎について漢学を修めた。16、7歳の時に儒家・佐善家の養子となったが、25歳で佐善家を去り、諸国修業の旅に出た。大坂では藤沢東畡に入門し、27歳ころには江戸に出て佐藤一斎に入門、昌平黌に入学した。諸国を遍歴したのち、嘉永6年、36歳の時に鳥取に帰って藩儒官となり学制の改革につとめ、尚徳館で藩士の教育にあたった。また、幕末から維新の激動期にあって国事周施に奔走した。44歳の時に藩命で肥前、佐賀、長崎を探索、この年に「研志堂詩鈔」を発刊した。明治6年、56歳の時に久米郡松神に移り、私塾を開いて近郷の子弟の教育につとめ、そのかたわら詩書画をよくした。明治8年、58歳で死去した。

山内篤処(1835-1885)
天保6年鳥取生まれ。名は衡、字は叔平。嘉永6年に正墻適処の研志塾に入門、安政5年には江戸に出て塩谷宕陰の門に入った。翌年、鳥取藩西館藩主池田清緝の侍講になり、一度鳥取に戻るが、また江戸に出たと思われる。万延元年、清緝に従って駿河鎮護のため約一年間駿河に滞在した。文久2年、清緝が没したため侍講の仕事は消滅、翌年中老で江戸にいた矢野能登に引き取られて江戸詰めの探索となった。元治元年、沖剛介とともに水戸に探索に行った際、鳥取藩の改革を決意、矢野能登を含めた3人で江戸を出て鳥取に戻るが、途中で矢野は病死した。明治3年、福本藩改革の仕事につき、福本少参事となり改革の中心人物となる。その後は、米子教習学校、米子明道小学校、鳥取遷喬小学校などの校長を歴任し、故郷の教育に尽力した。明治17年の第2回内国絵画共進会に出品、褒詞を受けた。明治18年、51歳で死去した。

鳥取(8)-画人伝・INDEX

文献:藩政時代の絵師たち藩政時代の写生画と文人画、正墻適処とその系譜、山内篤処伝