谷文晁(1763-1840)の実弟として生まれた谷元旦(1778-1840)は、鳥取藩江戸留守居役を務めていた島田図書の養子となり、島田家を継いで島田と改姓した。15歳離れた兄・文晁のもと、元旦は幼いころから画才を磨き、中国諸家の画法を摂取した山水画や、南蘋派の手法による花鳥画を手がけ、「黄初平図」など油彩画も試みている。青年期の元旦は、文晁から強い影響を受ける一方、十代後半には京都・大坂を訪れ、木村蒹葭堂や浦上玉堂とも接し、また円山応挙の門をたたいたとも伝わっている。また、幕府の調査隊の一員として蝦夷へ行き、『蝦夷風俗図式・器具図式』『蝦夷山水器物図巻』『蝦夷奇勝画稿』など多くの資料を残している。
島田元旦(1778-1840)しまだ・げんたん
安永7年江戸生まれ。谷文晁の実弟。父の谷麓谷は幕府の与力だったが、詩人として知られている。名は文啓、字もしくは通称は季允、のちに寛輔と改めた。1月1日に生まれたことから元旦(げんたん)と号した。別号に昴斎、嘯月斎、香雲軒、梅花軒、後素軒などがある。谷一族は画才に恵まれており、姉の舜英(1772-1832)や妹の紅藍(1780-不明)、谷文晁の先妻・幹々(1770-1799)も画をよくし、谷文晁の養子・文一(1787-1818)、実子の文二(1812-1850)も画家として知られている。
『鳥取藩史』に記載されている元旦の孫の口伝によると、元旦が13歳の時、文晁に叱責されて家を出て京に上がり、円山応挙の門に入り、応挙没後は南蘋画法を自ら研究し、前後7年で江戸に帰ったと伝わっている。また、寛政5年から翌年にかけて大坂の木村蒹葭堂のもとを11回訪問し、同年冬には江戸に戻っていることも資料に残っていることから、元旦が青年期に上京していることは明らかながら、正確な上京期間は不明である。
寛政11年、幕府が派遣した蝦夷地開発のための大規模な探検隊に加わり、松前から東海岸沿いを厚岸まで実地踏査し、東北、蝦夷地の風景や風俗、器物、動植物などを写生、『蝦夷風俗図式・器具図式』や『蝦夷山水器物図巻』『蝦夷奇勝画稿』など多くの資料を残している。
享和元年、鳥取藩江戸留守居役を務めていた島田図書の養子となり、養父を補佐するかたわら、たびたび藩より絵の制作も命じられている。文政2年、養父の図書が没し、42歳で正式に家督を相続した。文政12年、御国勝手を命じられ鳥取に帰ったが、日光東照宮修復の御礼使者として江戸に赴くなど、たびたび江戸に出ていた。天保11年、63歳で死去した。
鳥取(6)-画人伝・INDEX
文献:因幡画壇の鬼才 楊谷・元旦、藩政時代の絵師たち、藩政時代の写生画と文人画