美人画の大家として知られる浮世絵師・喜多川歌麿(1753?-1806)の肉筆画の大作「深川の雪」(掲載作品)が、平成24年(2012)2月、60余年ぶりに日本で発見され話題となった。「深川の雪」は、四季折々の遊郭での様子を描いた肉筆画の3部作「雪月花」(深川の雪、品川の月、吉原の花)のうちの一作で、明治期に国外に流出するという運命を辿り、昭和23(1948)年と昭和27(1952)年に銀座松坂屋で展示されたのち、永く行方不明のままだった。
この「雪月花」の制作は、下野国栃木(現在の栃木市)の豪商たちとの親交のなかで描かれたものとされる。自らも筆綾丸という狂歌名を持つ歌麿は、狂歌を通じて栃木の豪商たちと親交を持ち、何度か栃木を訪れていたと考えられている。栃木は、街道や舟運を背景に商業の町として栄え、江戸との交流のなかで文化的な影響も強く受け、その最たるものが狂歌とされ、栃木周辺の狂歌人口はかなりの数にのぼっていたと思われる。
歌麿の作品には、栃木の狂歌師たちが狂歌を寄せたものも多く、なかでも豪商「釜喜」の四代目善野喜兵衛(1768-1856)(狂歌名:通用亭徳成)の狂歌の登場回数が一番多い。善野喜兵衛は、下町(現在の室町)に居を構え、上町(現在の方町)にも店舗を出し、飛脚、書店、薬、お茶、金融業など、手広く商いを行なっていたようである。その叔父にあたる善野伊兵衛が、歌麿の「雪月花」の制作を依頼したと伝わっている。
「雪月花」に関するもっとも古い記録は、明治12年、栃木の定願寺における展観に、当地の豪商・善野家が出品したというものである。その時の出品作を記録した「展覧書画目録」(栃木・岡田記念館蔵)には、「雪月花図紙本大物 三幅対 善野氏蔵」と記されており、三幅が一度に展示されたことがわかる。
また、近年になって栃木周辺で歌麿の肉筆画「女達磨図」(下記掲載)「鐘馗図」「三福神の相撲図」も発見されており、栃木と歌麿の関係を物語っている。
喜多川歌麿(1753?-1806)きたがわ・うたまろ
宝暦3年頃生まれ。江戸時代中・後期の浮世絵師。本姓は北川、幼名は市太郎、通称は勇助、または勇記。出生地は明らかではないが、幼時より町狩野の鳥山石燕の門人となり、20歳前後は豊章と名乗った。別号に紫屋、筆の綾丸、燕岱斎、本燕、石要などがあり、忍岡歌麿、蔦の本の哥麿、哥麻呂などの落款が押されたものもある。十返舎一九と交わり、一九作の挿絵などを描いたが、故あって絶交したとされる。子はなく、門人としては月麿、藤麿、道麿、菊麿、秀麿らがいる。文化3年、54歳で死去した。
栃木(11)-画人伝・INDEX
文献:喜多川歌麿展(とちぎ蔵の街美術館)