江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

谷文晁ら江戸の文人と交流し多彩な画事を展開した小泉斐

左:小泉斐「月下弾琴図」栃木県立博物館蔵
右:小泉斐「唐美人図」栃木県立博物館蔵

下野国益子の神官の子として生まれた小泉斐(1770-1854)は、幼いころから画を好み、11歳で茂木に出店していた近江商人の島崎雲圃に入門、雲圃の師である高田敬輔にも師事した。師の雲圃は商売柄、近江と茂木を頻繁に往来していたため、その雲圃に同行して途上の風景に親しみ、各地の文人墨客と交流したことが、斐の画人としての大成に大きく影響したと考えられている。

参考:下野に鮎画を中心とした画風を伝えた近江商人・島崎雲圃

その後水戸に遊学して、彰考館総裁だった立原翠軒やその子杏所ら水戸学派の人々と交わり、谷文晁をはじめとした江戸の文人たちとも積極的に交流を持った。50歳頃、黒羽藩主大関増業の命により黒羽城内に創建された鎮国社の神官となり、そのかたわら藩のお抱え絵師として画技でも仕えた。

斐は、師の雲圃や敬輔が得意とした鮎画を継承し、鮎図の名手として知られるが、その画域は広く、楊貴妃の華清池での湯上がり姿を描いた「唐美人画」(掲載作品)などの美人画や、西洋画の遠近法を意識した真景図、さらに、やまと絵、仏画、南蘋派の花鳥画まで手がけており、江戸の文人たちとの交流が画域の広さに影響したと思われる。

小泉斐「鮎図」栃木県立博物館蔵

小泉斐(1770-1854)こいずみ・あやる
明和7年益子町生まれ。幼名は勝、のちに光定、字を桑甫、子章。檀山人、檀森斎、青鸞、非文道人、檀山老人などと号した。益子町鹿島神社の神主・木村市正の二男。寛政年間には黒羽藩領桜田村温泉神社の神官小泉家の養子となった。幼いころから画を好み、茂木の島崎雲圃に画を学んだ。その後水戸に遊学して、立原翠軒やその子杏所らと交流、谷文晁ら江戸の文人とも交流を持った。晩年は、黒羽藩主大関氏に招かれて黒羽城の北側に創建された鎮国社の宮司となった。安政元年、84歳で死去した。

栃木(9)-画人伝・INDEX

文献:小泉斐と高田敬輔 江戸絵画にみる画人たちのネットワーク、百花繚乱列島 = Abundant flowers in bloom : 江戸諸国絵師めぐり、栃木県歴史人物事典