島根の洋画は、横浜で写真と洋画を学んだ小豆澤碧湖(1848-1890頃)によってはじまった。松江の豪商の家に生まれ、はじめ中島来章に日本画を学んだ碧湖は、明治初期に上京し、写真家で洋画も得意とした横山松三郎の塾に入り、写真油絵の技術を受け継ぎ洋画の研究をした。明治15年頃には松江に帰り、島根に洋画を伝えた。島根洋画の普及に大きく寄与したのが、碧湖に洋画の技法を学んだ堀櫟山(1856-1909)である。櫟山は、松江藩士の長男として松江市に生まれ、幼いころから狩野派を学んだ。碧湖が松江に帰ってくると洋画を学び、特に写生に力を注いだ。明治17年には方円学舎と称する洋画の私塾を開設し、良家の子弟や学校の教員などに画法を教え、洋画の普及を試みた。のちに肖像画家として活躍する石橋和訓(1876-1928)が、はじめて洋画の技法を学んだのは櫟山からであり、その後和訓は渡英し、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。
小豆澤碧湖(1848-1890頃)
嘉永元年松江生まれ。本名は亮一。松江の豪商・小豆澤浅右衛門の長男。はじめ中島来章について日本画を学び、明治8年に上京して横山松三郎に写真の技術を学んだ。師である松三郎は油彩も得意とし、高橋由一の協力を得て「写真油絵」を完成させた。松三郎の没後は碧湖が受け継ぎ、明治18年に「写真油絵」として印画紙への着色写真の特許を取った。明治15年には帰郷し、島根にはじめて洋画の技法を伝えた。明治23年頃に死去した。
堀櫟山(1856-1909)
安政3年松江生まれ。本名は宗太郎。松江藩士の長男。幼いころから狩野派を学んだ。明治15年頃、小豆澤碧湖が油絵の技法を習得して帰郷した際、碧湖について油絵を学んだ。明治17年、第2回内国絵画共進会に出品、同年方円学舎と称する私立画学校を松江に開設し、絵を教え、島根に洋画を広めた。明治42年、54歳で死去した。
石橋和訓(1876-1928)
明治9年飯石郡反辺村生まれ。本名は倉三郎。幼いころから画才に恵まれ、明治25年に松江に出て師範学校絵画担当の後藤魚州に南画の手ほどきを受け、堀櫟山の方円学舎でも学んだ。明治26年、18歳の時に上京して本多錦吉郎に洋画を学び、南画家の滝和亭の内弟子となり本格的に日本画を学んだ。27歳の時に師の一字をもらい「和訓」と改名した。明治36年にイギリスに渡り、肖像画家のJ.S.サージェントらに学び、明治39年にはロイヤル・アカデミーに入学、イギリスの伝統的肖像画の画風を身につけた。大正12年に帰国するまでにロイヤル・アカデミー展や文展などに出品した。帰国後は、東京にアトリエを構え、肖像画、南画風の花鳥画などを描いた。昭和3年、52歳で死去した。
島根(19)-画人伝・INDEX
文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、出雲ゆかりの芸術家たち