昭和期に活躍した島根県出身の現代日本画家としては、まず橋本明治(1904-1991)が挙げられる。太い線描、明快な色彩を用いた橋本様式と呼ばれる独自の作風を展開し、日展で活躍、文化勲章を受章している。また、隠岐島に生まれた松浦満(1908-1998)は、海や港の郷土色豊かな風景や鯉など、水にちなんだ作品を多く描いた。野々内保太郎(1902-1985)は花鳥画を得意とした。保太郎の三人の子、野々内良樹、井上稔、野々内宏はいずれも日本画家となった。日本美術院では、島根の美術団体創成期を率いた和田翠雲の長男・和田悠成(1901-1997)がいる。横山大観夫人の紹介により61歳で堅山南風に師事して院展に出品、島根県日本画協会理事長、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に貢献した。創画会の石本正(1920-2015)は、ヨーロッパ中世のフレスコ画に傾倒し、舞妓や裸婦をモチーフに官能美あふれた女性像を描いた。
橋本明治(1904-1991)
明治37年那賀郡浜田町生まれ。大正15年東京美術学校に入学、在学中の昭和4年に帝展に初入選、昭和6年同校日本画科を首席で卒業、研究科に進み松岡映丘に師事した。昭和12年新文展で特選、翌年も特選となった。昭和15年、文部省から中村岳陵、入江波光らとともに法隆寺金堂壁画模写主任に任命され、昭和25年まで模写に携わった。戦後、昭和23年に日本画の新団体創造美術が結成され創立会員となるが、25年に脱退して日展に復帰した。昭和27年芸術選奨文字大臣賞、30年に日本芸術院賞、46年日本芸術院会員、47年日展常務理事、49年文化功労者となり、文化勲章を受章した。平成3年、86歳で死去した。
松浦満(1908-1998)
明治41年隠地郡都万村生まれ。上京し萩出身の松林桂月に入門した。昭和9年帝展に初入選。戦後は日展に出品し、22年日展特選、25年日展白寿賞、26年日展特選となった。審査員もつとめ日展会員となった。特に海や鯉など水にちなんだ作品を得意とし、港で生活する人々の暮らしを多く描いた。平成10年、90歳で死去した。
木村広吉(1912-1990)
明治45年松江市生まれ。呉服問屋を営んでいた十代木村重石衛門の二男。昭和7年京都市立絵画専門学校に入学、卒業後に同校研究科に進んだ。西山英雄に師事し、在学中に文展初入選、昭和21年からは日展に出品、特選、白寿賞を受賞、日展会員となった。平成2年、78歳で死去した。
野々内保太郎(1902-1985)
明治35年八束郡出雲郷村生まれ。農業を営む野々内豊太郎の二男。本名は安太郎。堀江有声、国井応陽、小村大雲らに学んだ後、昭和5年京都市立絵画専門学校に入学し、中村大三郎に師事、在学中に帝展に初入選した。大三郎没後は西山翠嶂に師事し、翠嶂没後は牧人社を結成し西山英雄に師事した。子に野々内良樹、井上稔、野々内宏がいる。昭和60年、82歳で死去した。
河部貞夫(1908-1987)
明治41年邑智郡市木村生まれ。昭和5年東京美術学校に入学、松岡映丘に師事した。在学中に映丘門下の山本丘人、杉山寧らと瑠爽画社を結成した。昭和10年同校日本画科を首席で卒業し、昭和11年から13年まで四日市市立商工学校に勤務した。戦後は昭和22年から瑠爽画社展の継続的グループ・一采社に参加した。創造美術展、新制作展、日展にも出品した。昭和62年、79歳で死去した。
和田悠成(1901-1997)
明治34年松江市生まれ。和田翠雲の長男。本名は成一郎。書道の号は観雪。大正8年に水郷社を結成、松江城山興雲閣で第1回展を開催し、新日本画研究の道に進んだ。昭和6年山陰書道会を設立、松江毛筆授産場を経営し、松江筆の製作指導にあたった。昭和37年横山大観夫人のすすめで、61歳で堅山南風に入門し、昭和41年再興院展に初入選、昭和44年院展院友に推された。島根県日本画協会理事、島根県展日本画審査員をつとめ、地元の日本画普及に大きく貢献した。平成9年、95歳で死去した。
石本正(1920-2015)
大正9年那賀郡岡見村生まれ。農業を営む石本寛一の長男。昭和19年に京都市立絵画専門学校を卒業、昭和22年に日展に初入選し、以後も日展に出品するが、昭和25年創造美術展に出品し初入選、翌年創造美術は新制作派協会と合流して新制作協会日本画部になったため、昭和31年新制作協会日本画部会員となり同展を主に活動するようになる。昭和46年日本芸術大賞および芸術選奨文部大臣賞を受賞した。昭和49年新制作協会日本画部が創画会を結成したため以後は創画会会員として活躍した。京都市立芸術大学と京都造形芸術大学の教授をつとめ、後進の育成にも尽力した。平成27年、95歳で死去した。
島根(18)-画人伝・INDEX
文献:島根の美術