江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

津和野藩御用絵師・大島松溪と藩主亀井家

津和野藩御用絵師・大島松溪(1758-1846)は津和野に生まれ、亀井矩貞・矩賢・茲尚の三代の藩主に仕えた。豪放な人柄で、あふれ出る才能は神がかり的だったとも伝わっている。常に大作を心掛け、彫刻も巧みだった。また、津和野藩主をつとめた亀井家は代々書画をよくしており、七代藩主の亀井矩貞(1736-1814)は、書画のほかにも陶芸の技法に通じ、「綾焼」と名づけて作陶した。

大島松溪(1758-1846)
宝暦8年津和野生まれ。津和野藩御用絵師。通称は音右衛門、または式右衛門、名は常一。別号に竹溪がある。津和野藩士・植木直悦の二男で、大島常倫の養子となった。はじめ藩主・亀井矩貞の命により北宗画を学んだが、のちに次の藩主・亀井矩賢の命のよって鏑木梅溪に師事して南宗画を学んだ。性格は豪放で他人と相容れないところがあったという。常に大作を好み、異色の作品を残している。彫刻も巧みで、戸田柿本神社拝殿前面にある龍の浮き彫りや、同社の御神像と「人麻呂御童子像及び付帯像」を彫った御用彫刻師としても知られている。高津柿本神社宝物殿にも神馬がある。弘化3年、89歳で死去した。

亀井矩貞(1736-1814)
元文元年生まれ。津和野藩七代藩主、亀井家八代。亀井茲親の孫。千山、三松斎などの号がある。書画をよくし、はじめ狩野派を学んだが、のちに宋紫石の筆意を慕った。また、陶器を愛し制陶の技に通じ、「綾焼」と名づけて自作には綾松軒またに磐山の銘を入れた。在職32年で、文武を興隆し、江戸の道学者・大島有隣を招いて領内を巡回し、道話を講釈させたりもした。文化11年、76歳で死去した。

亀井矩賢(1766-1821)
明和3年生まれ。津和野藩八代藩主、亀井家九代。亀井矩貞の長男。天明3年に家を継ぎ在職37年に及んだ。学を好み、武を励み、また殖産興業の事業を奨励した。幼いころから画を好み、三浦紫えんに学んだ。また、父矩貞と藩学養老館を創設した。文政4年、56歳で死去した。

亀井茲尚(1786-1830)
天明6年生まれ。津和野藩九代藩主、亀井家十代。亀井矩貞の五男で、文化7年に亀井矩賢の養子となった。文学詩歌を好み、狩野派の画をよくした。天保元年、45歳で死去した。

島根(9)-画人伝・INDEX

文献:大島松溪(益田市立雪舟の郷記念館編)、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典