江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

渡辺崋山と密接に交遊した津和野藩家老・多胡逸斎

多胡逸斎「八仙人図」

津和野藩家老・多胡逸斎(1802-1857)は、博識で内外の情報に通じ、藩政においても手腕を発揮、天保の飢饉に際しても藩内は難を逃れたという。書画においても、多くの著名南画家たちと交遊し、名を高めた。特に渡辺崋山とは密接な交際があり、崋山が蛮社の獄に連座して捕まった際にも大金を使い崋山を救ったという。隠居後は津和野で画事に専念した。また、壮年になって多胡逸斎に学んだ山本琴谷(1811-1873)は、逸斎とともに江戸に出て渡辺崋山らに師事、のちに津和野藩御用絵師となった。ほかに、津和野藩における絵師のはじめとされる中島信雪(不明-不明)をはじめ、多くの藩士や住職が画を描いている。

多胡逸斎(1802-1857)
享和2年下総国生まれ。通称は丹波、名は方真。別号に怪石、至楽堂、黙亮などがある。下総国結城の城主・水野摂津守勝剛の三男で、文久9年、25歳の時に津和野藩家老・多胡外記真恭の養子となり跡を継ぎ、天保13年まで17年にわたって家老をつとめた。多くは江戸の藩邸に在勤しており、江戸城二の丸の修繕に際し、普請惣奉行をつとめるなど、藩政にあっても政治手腕を発揮し、天保の飢饉の時には藩内にその難を逃れたという。画ははじめ片桐桐隠に学び、のちに桜間青崖、谷文晁についたとされる。高久靄崖、椿椿山、立原杏所ら多くの江戸の文人と交遊し、特に渡辺崋山、高野長英とは密接な交際があり、蛮社の獄に連座して捕まった獄中の崋山を救うため大金を使ったもの逸斎だった。博識で慈愛心に満ち、新進の気質に富んでおり、海外の形勢にも着目していた。天保13年の隠居後は津和野で画事に専念した。安政4年、56歳で死去した。

山本琹谷(1811-1873)
文化8年津和野生まれ。名は謙、はじめ幽谷幾秀、字は子譲。別号に杉亭、癡々斎、衡山がある。父の芳右衛門は津和野藩士だったが、若くして没したので、祖父・山本幾運の跡を継いだ。幼くして漢学、剣法を修め、壮年になって多胡逸斎について画を学んだ。天保元年、逸斎とともに江戸に出て渡辺崋山に師事し、崋山の没後は高久靄崖、椿椿山に学んだ。高野長英、藤田東湖と交遊があり、内外の事情に精通していた。嘉永6年頃、津和野藩御用絵師となり、のちに津和野城改修にあたっては障壁画を描いた。明治維新後は東京に住み、両国恵光院裏門前に寓居した。明治6年、ウィーン万国博覧会に出品、同年、信州上田に旅行中、病のため63歳で死去した。

中島信雪(不明-不明)
正徳享保頃の人。津和野藩における絵師のはじめとされる。狩野益信の門人と伝わっている。国絵図を作って名が高くなり、幕吏にも称揚された。

島田探龍(不明-1778)
鹿足郡津和野町の人。津和野藩士。通称は守茂。狩野探常の門に学び、法橋に叙せられた。安永7年死去した。

瀬川永知(不明-1730)
津和野藩首席家老・亀井宮内矩到の家人。狩野永叔の門人。享保15年死去した。

金丸常昭(不明-1758)
津和野藩士。亀井氏の姻戚・金丸仁寿翁の子。国史、暦算、推歩に精通し、また管弦楽、書画および和歌を得意とした。津和野藩の学事はこの人の恩恵に依るところが大きく、教育史における功績は顕著である。

加藤久皐(1764-1822)
明和元年生まれ。津和野藩士。亀井家八代矩賢に仕えた典医の系統とされる。山水花鳥を得意とした。文政5年、61歳で死去した。

村田美実(不明-1880)
津和野藩士。通称は九兵衛。江戸に出て佐藤一斎の門に学び、帰藩して養老館教授になった。また岡野洞山に学び、画を描いた。明治13年死去した。

井上安海(不明-1948)
津和野遍照寺住職。黙々庵蛙水と号し、詩書画をよくした。明治23年死去した。

村上石雲(1869-1930)
明治2年生まれ。津和野町妙壽寺住職。通称は安詳。別号に啞水窟がある。詩文を得意とし、また画も描いた。昭和5年、62歳で死去した。

浜崎屋市左衛門(不明-1816)
津和野の商人。薄利多売を商売の秘訣として後進の指導にあたった。書画も堪能だった。文化13年死去した。

島根(7)-画人伝・INDEX

文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典