江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

四条派を学んだ上代英彦と出雲の門人

上代英彦「鶏図」

上代英彦(1819-1883)は5年間堀江友声に学んだのち、京都に出て四条派の岡本豊彦に師事した。田能村直入、中西耕石らと交友し研鑽を積んだが、病弱だったため帰郷し、晩年は大東町で過ごした。出雲の門人としては斎藤猛彦(1825-1876)、山本稲玉(1830-1897)、南画に転身した久座梅屋(1838-1889)らがいる。

上代英彦(1819-1883)
文政2年大原郡大東町生まれ。通称は豊八郎。上代市兵衛の三男。14歳の時から5年間堀江友声に学び、九容斎栄伯と号した。20歳の時に京都に出て、四条派の岡本豊彦の門に入り、英彦と改名した。20年ほど京都で研鑽を積み、田能村直入、中西耕石らと深交があった。その間仲井家を相続したが、幕末の混乱の中にあって安居できず、摂津、播磨を遊歴。その後、病弱のため帰郷し、晩年は大東町で悠々自適の生涯を過ごした。明治16年、65歳で死去した。

斎藤猛彦(1825-1876)
文政8年大原郡大東町生まれ。斎藤松翁の子。名は武彦、または武比古。斎藤家十九代の神職を継ぎ、医術も修めた。幼いころから画を好み、壮年になって上代英彦に師事した。墨画、彩色ともに得意とした。明治9年、52歳で死去した。

山本稲玉(1830-1897)
天保元年大原郡大東町生まれ。通称は平七郎。14歳の時から大東町祥雲寺の住職について文学修業をし、画を堀江友声、上代英彦に学んだ。嘉永6年に諸国を歴遊し、生野銀山領主の嗣子に画法を授けたこともある。のちに帰郷し、明治30年、68歳で死去した。

久座梅屋(1838-1889)
天保9年簸川郡大社町生まれ。金兵衛の長男。幼いころから画を好み、14歳の頃には凧の画を描くことを仕事とした。安政6年、26歳の時に飯石郡三刀屋に移って上代英彦の門に入り、30歳の頃には広瀬に行って堀江友声の教えを受けた。万延元年に黄仲祥が帰郷して際には指導を受け、四条派の画風から南画に一変し、画号もはじめは雲仙または梅屋と称していたが、南画に入ってからは琴山と改めた。明治22年、52歳で死去した。

田部宗章(不明-不明)
仁多郡仁多町三沢の人。通称は金之助。上代英彦に師事した。

島根(5)-画人伝・INDEX

文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典