江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

諸国を遊歴し多くの門人を残した堀江友声

堀江友声「龍虎図」島根県立美術館蔵

大原郡大東町に生まれた堀江友声(1802-1873)は、14歳の時に松江に住んでいた狩野派の竹内衡山に入門、衡山の没後は京都に出て狩野派の山本探淵に師事した。また、宋・元・明の諸名家の筆法を研究するとともに、四条派の柴田義董に私淑し画技の研鑽に励み、四条派の画風を装飾的に発展させ、独自の地位を築いた。29歳の時に海北友松の末裔・友徳に請われて養子となり、友徳に代わって海北家を継いだが、家督に関して折り合いがつかず、翌年海北家を離れた。各地を遊歴して画事に勤しみ、多くの門人を残している。

堀江友声(1802-1873)
享和2年大原郡大東町生まれ。森山勇兵衛為春の二男。長じて母方の堀江家を継いだ。幼名は森山善三郎で、のちに善之丞と改めた。字は斧厳、名は精一、初名は豊信。別号に雲峰盛伯、遷喬、豈楽斎などがある。文化12年、14歳の時に松江に住んでいた狩野派の竹内衡山に入門したが、翌年衡山が没したため、文化14年、京都に出て狩野派の山本探淵に師事した。また、宋・元・明の諸名家の筆法を研究するとともに、四条派の柴田義董に私淑して研鑽に励んだ。文政2年帰郷したのち、備後の三次、芸州広島、厳島、讃岐などを遊歴、文政3年京都に出て、文政6年には関東を目指して京都を発ち、濃州岐阜で画事に勤しんでいたとき、郷里の大東が大火に見舞われたため帰郷した。帰郷中に、出雲、伯耆の各地を遊歴、文政10年には長州萩に遊んだ。天保元年、29歳の時に、海北友松の末裔・友徳に請われて養子となり、友徳に代わって海北家の画事に従事した。この時から「友声」の画号を用いている。翌年、家督に関して折り合いがつかず、海北家を離れ、美濃、尾張を遊歴、天保3年帰郷し、出雲各地で画事に勤しんだ。嘉永4年、広瀬藩9代藩主・松平直諒のときに、広瀬藩に召抱えられた。明治6年、72歳で死去した。

堀江友節(1841-1876)
天保12年生まれ。松江藩士・上田理左衛門の子。7歳の時に堀江友声の養子となり、画を学んだ。初名は仲、のちに節と改めた。別号に九皐、得真斎がある。広瀬藩に仕え、慶応元年から江戸勤めとなった。明治9年、36歳で死去した。

堀江有声(1859-1922)
安政6年生まれ。堀江友節の長男。通称は善之丞、字は精英。別号に潜竜斎、清軒がある。祖父・友声、父・友節の教えを受け、かたわら山村勉斎に漢学を学んだ。県立師範学校を卒業して教育に従事したこともある。大正11年、64歳で死去した。

堀江和声(1887-1954)
明治20年生まれ。堀江有声の子。名は清。東京美術学校を卒業後、大正2年に広瀬町に帰って画塾を開いた。花鳥を得意とした。昭和29年、66歳で死去した。

島田英雲(1865-1930)
慶応元年能義郡広瀬町生まれ。通称は幸太郎、のちに常右衛門と改めた。堀江友声に師事した。のちに画事をやめ衣紋書を仕事とした。昭和5年、66歳で死去した。

黒田盛山(不明-不明)
出雲市今市町生まれ。堀江友声の門人。

其白(不明-不明)
姓は不明。出雲国今市の人。堀江友声の門人。

鶴原西獄(1810-1879)
文化7年大原郡大東町西阿用生まれ。医師・鶴原兵衛門の子。名は亀齢。堀江友声に学んだ。のちに京都に出て医術と画を学び、帰郷後は医術のかたわら絵筆をとった。明治12年、70歳で死去した。

小西眉山(1806-1854)
文化3年生まれ。初名は魚比呂、または魚彦、のちに眉山と改めた。神職・吉岡十二代目美濃の五男。幼いころから画を好み、堀江友声に学んだ。23歳の時から京都で3年過ごし、その後各地を旅して画技を磨いた。弘化4年に簸川郡大社町杵築の北島国造の近習となり、小西家に入籍して小西中衛と称した。安政5年、49歳で死去した。

横田鬼巌(不明-不明)
飯石郡三刀屋町の人。通称は祥介。別号に雲峯がある。堀江友声の門人。

上代栄白(不明-不明)
大原郡養賀村の人。通称は豊八郎。別号に九容斎がある。堀江友声の門人。

狩野幽谷(不明-不明)
大原郡大東町新庄の人。通称は庄十郎。堀江友声の門人。

木村青籃(不明-不明)
大原郡大東町の人。通称は忠太郎。堀江友声の門人。

佐藤壽山(不明-不明)
大原郡大東町の人。通称は市蔵。堀江友声の門人。

森山壽静(不明-不明)
大原郡大東町の人。通称は豊太郎。堀江友声の門人。

森山精玉(不明-不明)
大原郡大東町の人。堀江友声の甥。友声に師事した。

森山其声(不明-不明)
堀江友声の兄・忠蔵の長男。堀江友声の門人。松江市天神町に住んでいた。

安部掉月(1819-1851)
文政2年生まれ。通称は常四郎。別号に江濶斎がある。元は大原郡加茂町紅屋の息子だったが、のちに能義郡広瀬町布部の安部氏の養子になった。堀江友声に学んだ。嘉永4年、33歳で死去した。

清水撫玉(不明-不明)
通称は金之助。別号に皎々斎がある。片岡撫陵の門人だったが、のちに堀江友声に師事した。松江市茶町に住んでいた。

大野居巌(不明-不明)
出雲市外園町の人。通称は武一郎。堀江友声の門人。

西山松亭(不明-不明)
出雲市荻杼町の人。医師。堀江友声の門人。

鶴聲(1819-1884)
文政2年生まれ。姓は多田氏と思われる。大社町の人。堀江友声の門人。出雲神宮多田源守彦とした落款のものがある。

原田精山(1844-1910)
弘化元年能義郡広瀬町西比田生まれ。名は啓左衛門。堀江友声の門人。明治43年、67歳で死去した。

黒田椿年(不明-不明)
大原郡加茂町の人。通称は勘十郎。堀江友声の門人。

佐伯鶴友(不明-不明)
堀江友声の門人。履歴は不明。

佐伯景幽(1813-1869)
仁多郡横田町の人。通称は歓一。堀江友声の門人で、京阪地方、高野山の院内で修業した。のちに景文の門人となって画技を磨いた。安政4年法橋に叙された。明治2年死去した。

佐藤応声(不明-不明)
大原郡大東町の人。堀江友声の門人。

舟谷處節(不明-不明)
能義郡広瀬町真宗本派勝源寺の住職。堀江友声の門人。

松平玉峯(1817-1861)
広瀬藩主第九世松平直諒の画号。俳号に沾領がある。画を本多玉岡、堀江友声に学び、書は柳田適斎に学んだ。文久元年、45歳で死去した。

島根(4)-画人伝・INDEX

文献:島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典、出雲ゆかりの芸術家たち、出雲の藩主とお抱え絵師・職人展