山縣岐鳳(1776-1847)は、京狩野の画人・山縣頼章の子として京都に生まれた。父の頼章は伏見宮家の邦頼親王に仕えていたが、天明8年の天明の大火を機に一家で京都から長浜に移住した。岐鳳は長浜で父に画法を学んでいたが、15歳の時に父を亡くし、21歳の時には母を亡くした。
画技については、父が没した15歳の時にはすでにかなりのものを修得していたとみられるが、10代の作品はほとんど現存しない。20代の作品もわずかに残るのみだが、父母の菩提寺である知善院に残っている「天台大師像」が、父の七回忌と母の一周忌の追善供養のために岐鳳が22歳の時に描いたものである。
彦根藩とは、かなり交流があったとみられ、大坂夏の陣で木村重成を破った井伊直孝隊の奮戦を描いた「若江合戦図」(掲載作品)を描いたほか、彦根藩主・井伊直中の寿像も手掛けている。彦根天寧寺の堅光禅師は、岐鳳の作品を称賛していたといい、禅師が画賛を記した作品も多く現存している。
30代後半には円熟期を迎え、法橋にも叙されている。この時期に、長浜八幡宮の「源義家・卜部兼親像」を描き、多数の曳山絵画も完成させ、ほかにも多くの花鳥画や山水画を残している。また、国友鉄砲鍛冶の科学者・国友一貫斎重恭の「夢鷹図」も描いている。
岐鳳は、長浜町周辺に多くの画跡を残すとともに、この地に京都の文化的香りを伝え、農民・商人たちを弟子として育てた。主な門人としては、八木奇峰、中川雲屏、河路光応らがおり、いずれも岐鳳について画の手ほどきを受けたのち、岐鳳の紹介で京都に出て師を求め大成した。
山縣岐鳳(1776-1847)やまがた・ぎほう
安永5年京都下寺町(現在の京都市下京区)生まれ。狩野派の画人・山縣頼章の子。幼いころに一家で湖北・長浜に移住した。名は頼英、のちに頼輝、字は釣徒、通称は山三郎、のちに周蔵。別号に有隣軒がある。法橋に叙せられたのちは法橋岐鳳と称した。俳諧を好み俳号を文士、長丁汀とした。弘化4年、72歳で死去した。
八木奇峰(1804-1876)やぎ・きほう
文化元年近江国浅井郡下八木村(現在の長浜市)生まれ。弓削善左衛門の子。名は致恭、字は子謙。はじめ山縣岐鳳に画法を学び、のちに岐鳳の紹介で京都に出て四条派の松村景文に師事した。京都で活躍し、御所にも帯刀で出仕した。作品は、長浜祭の孔雀山の舞台障子腰襖「芙蓉四十雀図」や楽屋襖「紅葉鳩図」などが残っている。子の八木雲渓も画人として京都で活躍した。明治8年、71歳で死去した。
中川雲屏(1802-1863)なかがわ・うんぺい
享和2年浅井郡曽根村(現在の長浜市)生まれ。幼名は亀吉、のちに雲平、名は韞、字は士玉。別号に篁笙がある。落款には李雲屏と記した。はじめ山縣岐鳳に画法を学び、その後岐鳳の紹介で京都に出て四条派の岡本豊彦に師事した。天保14年から美濃国多良の藩主高木家に出入りして画を教授したと伝わっている。嘉永4年京都に戻ったが、その後も京都、湖北などの文人たちと交友し、文久3年、美濃において63歳で死去した。
滋賀(11)-画人伝・INDEX
文献:山県岐鳳 没後百五十年 湖北・長浜の画人、近江の画人、近江の画人たち