唐津藩の御用絵師としては、文化14年以降この地を治めた小笠原氏の絵師となった江戸の画家・長谷川雪旦(1778-1843)が知られている。雪旦は、40代で唐津藩小笠原家の御用絵師となり、藩主小笠原長昌と一緒に唐津に随行した時の道中の景観や様子を画帖に仕立てている。唐津には2度ほど滞在し、江戸ではあまり見ない構図や画題の漢画系の作品を残しているが、文政6年の長昌の没後は唐津藩とは疎遠になったようである。雪旦とその子・長谷川雪堤(1813-1819)は唐津に住むことはなかったが、雪堤の門人で長谷川姓を名乗った長谷川雪塘(1836-1890)は唐津に住み、この地で維新後に没している。
国立国会図書館には「雪旦・雪堤粉本」と称した、父子の大量の下絵、模写類の作品群が一括保存されている。それらによる近年の研究調査では、長谷川雪旦の師として長谷川雪嶺の名が確認されている。雪嶺は雪舟の十三代目を名乗る絵師で、雪旦の模写の中には、雪嶺や雪舟の作品が複数存在する。また、雪堤にも狩野派を含むそれに類する漢画系の模写がある。模写の中には、琳派風、円山四条派風、伝統的な仏画なども認められることから、父子は流派の枠を超えて、様々な絵を学んでいたと推測される。
雪旦の名前を一躍有名にしたのは、斉藤月岑が祖父・父を継いで三代で編纂した『江戸名所図会』に挿絵を描いたことによる。本書は、天保5年と7年の2度に分けて刊行されたもので、雪旦は650景にもおよぶ挿絵を描いている。子の雪堤も、相模国の名所旧跡のうち、徳川家康由来の事績を記録した地誌『相中留恩記略』に挿絵を描き、父親同様、名所図会画家として名を高めた。
長谷川雪旦(1778-1843)はせがわ・せったん
安永7年生まれ。本姓は後藤、名は宗秀、俗称は茂右衛門、または長之助。別号に一陽庵、巌岳斎、岩岳斎、岳斎がある。住居は下谷三町橋(現台東区)で、元来彫刻大工と伝わっているが詳細はわかっていない。俳諧を好み、五楽という俳号で文人たちとの交流も盛んだった。斉藤月岑が祖父・父を継いで三代で編纂した『江戸名所図会』の挿絵を担当した。40代で唐津藩小笠原家の御用絵師となったが、その詳細は分かっていない。実際に唐津および周辺を歩いてスケッチを残しているようではあるが、文政6年の長昌の没後は疎遠となった。のちに法橋となり、晩年には法眼の位を得た。天保14年、66歳で死去した。
長谷川雪堤(1813-1882)はせがわ・せってい
文化10年江戸生まれ。名は宗一。別号に梅紅、巌松斎などがある。画は父に学んだ。父親譲りの技量を発揮し、風景画や人物画を主とする作品を多く残している。幕府の地誌編纂係りとも繋がりのある相模国藤沢渡内村の名主・福原高峰の依頼により、相模国内の家康有縁の名所や旧蹟を記録した地誌『相中留恩記略』に挿絵を描いた。さらに『成田名所図会』にも挿絵を描いており、父親同様、名所図会画家として名を高めた。明治15年、70歳で死去した。
長谷川雪塘(1836-1890)はせがわ・せっとう
天保7年生まれ。奥州の人。本姓は清原。庄内藩松田稔左衛門の子。別号に永麟がある。安政3年20歳にして狩野永悳について絵を学んだ。慶応8年、長谷川雪堤の門人として唐津藩の御用絵師となり、姓を長谷川と改めた。廃藩後も唐津江川町に住み、一般の求めに応じて画を描いたため、唐津界隈に多くの作品が残っている。明治23年、54歳で死去した。
佐賀(6)-画人伝・INDEX
文献:江戸の絵師 雪旦・雪堤 その知られざる世界、肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志