江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

草場佩川と多久の先覚者

早い時期から東原庠舎や多久聖廟が創建された多久では、文教の基盤が確立され、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した先駆者を多く輩出した。多久生まれの草場佩川(1787-1867)は、詩歌書画にすぐれ、東原庠舎、弘道館の教授として多くの人材を育てた。その子・草場船山(1819-1887)は、幼いころから頭角をあらわし、東原庠舎の教授となり、さらにその子・草場金台(1858-1933)も書画にすぐれ、佩川、船山を継ぎ、学者として、文人として草場三代と称された。また、同じ多久生まれの石井鶴山(1744-1790)は、佐賀八代藩主・鍋島治茂に才学を認められ藩校弘道館の設立に参画し、藩主の顧問として優遇された。弘道館からは、明治新政府で活躍した佐野常民、島義勇、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信らが出ている。

草場佩川(1787-1867)
天明7年多久町生まれ。肥前佐賀藩領の多久家の家臣・草場泰虎の二男。通称は瑳助。3歳にして母から口づてに習った国詩を暗誦したという。8歳で東原庠舎に入り頭角をあらわし、のちに弘道館で学んだ。画は江越繍浦に学び、特に墨竹を好んで描いた。23歳の時に江戸に出て昌平黌に入学、古賀精里に学んだ。文化8年には第12回朝鮮通信使を迎えるため対馬に派遣され、国書の草案や対応にあたった。東原庠舎、弘道館の教授となり多くの人材を育てた。詩歌書画にすぐれ、多くの作品、著書を残している。慶応3年、81歳で死去した。

草場船山(1819-1887)
文政2年多久町生まれ。草場佩川の長男。名は廉、通称は立太郎。東原庠舎で頭角を表し、19歳で東原庠舎の教官になった。天保12年江戸に遊学し、昌平黌の古賀侗庵に学んだ。昌平黌や大阪で多くの学者と交わり、帰郷後は東原庠舎の教授となり、そのかたわら私塾「千山樓」を開いた。安政2年再び京都に出て勤皇の志士らと交わった。伊万里に啓蒙塾を開いたが、まもなく西本願寺の招きにより京都に出た。多くの作品、著書がある。明治20年、69歳で死去した。

草場金台(1858-1933)
安政5年西町生まれ。草場船山の三男。幼名は謙三郎、字は士行。慶応元年東原庠舎に入学した。明治10年東京外国語学校に入学。明治12年陸軍参謀本部から北京に留学し、帰国後大阪鎮台で中国語を教授。のちに台湾総督府、朝鮮総督府などの通訳官をつとめた。隠居後は京都寺町頭に隠棲し、漢詩、絵画、彫刻三昧で、特に書画にすぐれ、佩川、船山を継ぎ、学者として、文人として草場三代と称された。書画には、絹本彩色の春景山水図、秋景山水図がある。昭和8年、78歳で死去した。

石井鶴山(1744-1790)
延享元年多久生まれ。名は有、字は仲車、通称は有助。幼いころから学問を好み、17歳で東原庠舎の塾頭となった。また、長崎諏訪神社神官青木某に伴われて京都に出て、高葛坡について学んだとされる。のちに佐賀八代藩主・鍋島治茂にその才学を認められ、藩校弘道館の設立に参画し、伴読国学教諭に任じられ、さらに藩主の顧問として優遇された。寛政元年藩主に伴い江戸に赴き、翌2年、摂津において病気のため47歳で死去した。

深江簡斎(1771-1848)
明和8年多久生まれ。通称は三太夫。弘道館に学び、弘道館監察をつとめ、のちに東原庠舎の教授となった。また邑の大監察、鉄砲物頭など諸役をつとめた。著書に多久の地誌『丹邱邑誌』(5巻)がある。嘉永元年、78歳で死去した。

佐賀(5)-画人伝・INDEX

文献:佐賀偉人伝 草場佩川、多久の先覚者書画