江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

二人の広渡心海と肥前武雄の絵師

肥前武雄では、広渡雪山の弟にあたる初代広渡心海(1596-1685)が、武雄邑主のお抱え絵師として活躍した。心海の没後は、心海に嫡男がいなかったため、女婿の広渡武則に家督を継がせて絵師としたが、武則の嫡男・権八に子がなく、その技法を継ぐものもおらず、武雄での広渡家は一時途絶えてしまった。一方で、広渡家の支流として、初代心海に学んだ広渡一湖が長崎で唐絵目利となり、その職は代々世襲で継がれるようになった。武雄においては、幕末期になって、第28代武雄邑主・鍋島茂順が、家臣の中から絵の技量に優れた加々良良寛に広渡家を再興させ、2代広渡心海(1806-1888)を名乗らせた。その跡は、子の広渡三舟(1841-1931)が継いだ。二人の心海を区別するため、初代心海を法橋心海、2代心海を良寛心海と呼んでいる。また、白如斎成真(不明-不明)とその子・温古斎(不明-不明)、さらにその子・柏山(不明-不明)も、第25代武雄邑主・鍋島茂昭に絵師として仕え、武雄鍋島家に襖絵などを残している。

広渡心海(初代)(1596-1685)
慶長元年生まれ。法橋心海。広渡雪山の弟。幼名は三弥。別号に幽甫がある。狩野洞雲の門人で、延宝2年から4年までの宮中新院造営の際には、狩野永真、狩野洞雲らと共に招かれ、内侍所、東の間に花鳥画を描いた。寛文4年には法橋に叙された。武雄邑主のお抱え絵師だったが、一時長崎に滞在し、熊本の末次小左衛門(広渡一湖)に画法を伝えた。貞享2年、90歳で死去した。

広渡心海(2代)(1806-1888)
文化3年生まれ。良寛心海。名は加々良良寛。藩武雄邑主・鍋島茂順の家臣・加々良上野守の末裔。江戸で狩野良信の門に学んだ。初代心海の娘婿・広渡武則の子権八に子がなく、心海の家系は途絶えたが、権八を継いで広渡心海を名乗った。法橋心海と区別するため、良寛心海と呼ばれている。明治21年、82歳で死去した。

広渡三舟(1841-1931)
天保12年生まれ。2代広渡心海(良寛心海)の長男。名は文太郎。別号に静嘯斉がある。父に狩野派の画法を学んだ。長崎の武雄屋敷に一年余り滞在し、この間、全国に配布された各種の植物を写生し、その技量の高さで人々を驚嘆させたという。山水花鳥を得意としたが、確認される作品の多くは晩年のもので、鍋島茂義の肖像画なども残っている。昭和6年、90歳で死去した。

白如斎成真(不明-不明)
本名は岩谷周助。名は守成。武雄25代邑主・鍋島茂昭に絵師として仕えた。武雄神社拝殿の合天井に描かれた絵は、白如斎、温古斎父子の筆によるものと伝わっている。また、武雄鍋島家の襖絵なども残っている。

温古斎(不明-不明)
白如斎成真の子と伝わっている。武雄鍋島家の襖に父と描いたほか、杉戸絵などが多く残っている。

佐賀(3)-画人伝・INDEX

文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画、佐賀の江戸人名志