江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

尾張南画の草創期

丹羽嘉言「神洲奇観図」

名古屋を中心とする尾張地方の南画は、江戸中期の明和年間に始まり、幕末・明治に至るまで多彩な展開をみせた。日本南画の創始に重要な役割を果たした彭城百川(1697-1752)も名古屋の生まれだが、その活動のほとんどが京都でのものであることから、尾張南画の創始は、百川が死去した時にはまだ10歳だった丹羽嘉言(1742-1786)といえる。

20歳前後で京都に遊学し、明和年間に帰郷した嘉言は、国学を納める一方で洋風画の筆致や構図の山水画を研究、尾張南画の基礎を築いていった。また、ともに尾張南画を創り出した西村清狂(1727-1794)は人物画を切り開き、さらに以前から活動していた津田応圭(不明-1780)が花鳥画を主導した。その周辺には山川墨湖、巣見東苑、高間春渚らがいて、さらに柴田西涯、鈴木若水、宮崎白山、佐野秋華、井上東離らが出てくる。

丹羽嘉言(1742-1786)にわ・よしのぶ
寛保2年4月3日生まれ。字は彰甫、通称は新次郎。別号に章甫、名士関、謝庵、釈秋林、天放、聚珍堂、福善斎、石居、惺堂、清閑亭主、東海などがある。尾州藩士。雲臥禅師を慕い、30代半ばにして般若台に隠棲、禅理をきわめ、画を描き、風流三昧の生活を送った。寡欲で酒をたしまみ、描くところの山水は元明の風格にかない、その巧妙さは池大雅と並び称された。国文学への造詣の深さや、木活字本の制作、叢書化など多方面で先駆的な役割を果たした。『謝庵遺稿』『福善斎画譜』の著書がある。天明6年3月16日、45歳で死去した。

西村清狂(1794-1794)にしむら・せいきょう
享保2年生まれ。名は百春、通称は清兵衛。祇園町の「鑪屋」の商人。幼い頃から画を好み、師はなく自らで画法を切り開いた。飄逸な人物画をもっとも得意とした。生来酒を好み、酔いにまかせた画作も多い。寛政6年12月11日、68歳で死去した。

津田応圭(不明-1780)つだ・おうけい
名は乗文、通称は織部、縫殿、字は応圭。別号に北海、柘榴園がある。尾州藩の重臣で、三之丸の東南櫓角に住み「隅の津田」と称された。画を好み、沈南頻を学び、元明の古法をくみ、特に花鳥画を得意とした。尾張における明清画の先駆者。安永9年11月22日死去した。

山川墨湖(1746-1800)やまかわ・ぼっこ
延享3年1月1日生まれ。名は斉、字は子順、通称は弥兵衛。別号に五石山人がある。名古屋上畠町の「丸屋」の商人。文雅を好み、長崎に遊んだ清人費晴湖に南画を学び、山水蘭竹が巧みだった。書をよくし、狂歌もたしなんだ。寛政12年6月4日、55歳で死去した。

巣見東苑(不明-不明)すみ・とうえん
名は巣敏、字は修父(甫)、通称は治平。名古屋伝馬町に住み、画をよくして天明年間に活躍した。丹羽嘉言と親交があり、天明元年4月3日の伏見旧宅における嘉言不惑賀宴にも招かれている。

高間春渚(1756-1786)たかま・しゅんしょ
宝暦6年生まれ。名は明遠、通称は増兵衛。別号に清環堂主人がある。名古屋赤塚の豪商で、はやくに亡くなった兄李渓のあとを継いだ。文学を好み、磯谷滄洲に師事した。また、井上士朗、近藤九渓らと五子の社をつくって雅事に遊び、遠山豆洲の三之丸屋敷に招かれた長崎の勝野范古につき画を学び、明清風の水墨画をよくした。天明6年11月3日、30歳で死去した。

柴田西涯(不明-不明)しばた・せいがい
名は玄龍、景浩。名古屋納屋町に住んでいた。安永年間に活躍した。

鈴木若水(不明-不明)すずき・じゃくすい
字は伯栗、穂寛、通称は平九郎。安永年間に活躍した。

宮崎白山(不明-不明)みやざき・はくさん
名は忠敏、字は慎甫、通称は十郎次。海西郡島ケ地の人。安永年間に活躍した。

佐野秋華(不明-1814)さの・しゅうか
名は忠豊、字は公栗、通称は周平。安永年中に出て、左忠豊と称して天明・寛政年間に活躍した。

井上東離(不明-不明)いのうえ・とうり
名は邦高、通称は嘉兵衛。嘉言と親交があり『福善斎画譜』の中に多くの虫類の写生がある。

尾張(5)画人伝・INDEX

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史