江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

尾張の狩野派・代々続く御用絵師

神谷晴真「花車図」建中寺蔵

尾張藩主は代々、教養のひとつとして狩野派の技法を学び、狩野派の画人を御用絵師として召し抱えていた。19世紀の後半からは、神谷姓を名乗る二家系が御用絵師の列に加わり、幕末までその任にあった。神谷養朔、神谷晴真、神谷三圭とつづく系列と、神谷秋山、神谷慶秋、同二代、神谷高秋、神谷養秋、神谷晴秋と続く系統である。また、町狩野から御用絵師になった楠本雪溪らもいる。

神谷養寿(不明-1808)かみや・ようじゅ
江戸木挽町狩野七代養川院惟信の門人。天明8年村上家を出て今村随学の養子となり、のちに神谷姓に改め、同6年尾張藩御用絵師となった。西区山田に住んでいた。文政5年死去。今村養寿と同一人物とみられる。

神谷養朔(不明-1824)かみや・ようさく
神谷養寿の子。別号に栄作、了作、良朔、竜朔がある。西区山田に住んでいた。秋山と同時期の御用絵師。文政7年死去。

神谷晴雲(1793-1826)かみや・せいうん
江戸木挽町狩野九代晴川院養信の門人。今村養寿の長男。はじめ玉真と称した。字は碧峰、別号は竹斎。文化11年尾張藩御用絵師となる。文政9年死去。今村晴雲と同一人物とみられる。

神谷晴真(不明-1862)かみや・せいしん
神谷養朔の子。木挽町狩野九代晴川院養信の門人。はじめ元真と号した。文政8年尾張藩御用絵師となる。弘化2年晴川院の弟・晴雪立信から狩野姓への改姓を許される。文久2年死去。

神谷三圭(不明-不明)かみや・さんけい
神谷晴真の子。定治とも称した。文久2年尾張藩御用絵師となった。明治年免職され、同4年に隠居。

神谷秋山(不明-1818)かみや・しゅうざん
父は央秋。文化8年尾張藩御用絵師となる。父央秋については不詳。文政元年死去。

神谷慶秋(初代)(不明-1860)かみや・けいしゅう
神谷秋山の養子。名は鉄助。文政13年尾張藩御用絵師となる。嘉永7年死去。

神谷慶秋(二代)(不明-1856)かみや・けいしゅう
初代慶秋の子。嘉永7年尾張藩御用絵師となる。安政3年死去。

神谷高秋(不明-1860)かみや・こうしゅう
二代慶秋の養子。はじめは清秋と称した。万延元年死去。

神谷養秋(不明-1811)かみや・ようしゅう
尾張藩御用絵師。文化8年死去。

神谷晴秋(不明-不明)かみや・せいしゅう
神谷養秋の養子。慶応4年御用絵師見習となる。明治2年免職。

楠本雪溪(1781-1850)くすもと・せっけい
画名は紫岡宗琳。号は鳳湫。東都に生まれ尾張に住んだ。文政12年、出入りの町絵師として尾張藩から扶持三人分を与えられる。同じ頃、名古屋城深井庭内竹長押茶屋の障壁画を、谷文晁、住吉広定らとともに描いた。天保4年尾張藩御用絵師見習となり、7年尾張藩御用絵師となる。しばしば江戸詰を命じられた。嘉永3年死去。

楠本圭山(不明-不明)くすもと・けいざん
楠本雪溪の子。嘉永3年御用絵師見習となる。

尾張(2)画人伝・INDEX

文献:愛知画家名鑑尾張の絵画史