姫島竹外「竹溪暁霽図」
姫島竹外(1840-1928)は、筑前国の福岡藩士で代官をしていた姫島家の長男として生まれ、父に二天流の剣法を教わり、藩校・修猷館で学んだ。また画を好み、はじめ村田東圃に学び、のちに石丸春牛に師事した。武芸に秀で、江戸詰や京都での禁衛を経験し、慶応元年に家督を相続、長州征伐や鳥羽伏見の戦いに従軍した。
福岡侯に仕え官職にあったが、それを辞して明治11年に上京、九条家や二条家の知己を得て東宮家に「松石瑞芝図」を献上し、画家としての名声を得た。明治16年には大阪に転居し、内国勧業博覧会などで受賞を重ね、大阪の南画家たちと南宗画会(のちに大阪南宗画会と改称)を結成するなど、近代大阪南画壇の重鎮として活躍した。
また、大正7年には竹外南画院を設立して後進の指導にあたり、門下からは水田竹圃、山田秋坪、赤松雲嶺ら多くの南画家が出た。
姫島竹外(1840-1928)ひめしま・ちくがい
天保11年筑前国(現在の福岡県)生まれ。福岡藩士の子。本名は重純で略して純、字は子純、幼名は磯熊のちに与左衛門、通称は解三。別号に玄洋釣徒、福陵徴士、悟竹草堂などがある。村田東圃、石丸春牛に師事した。明治11年東京に転居し、明治16年大阪に移住した。明治25年皇后行啓に際して席上揮毫を披露。明治28年第4回内国勧業博覧会で褒状、日本青年絵画協会第4回絵画共進会で3等褒状。明治31年南宗画会の結成に参加、この頃から扶桑絵画協会の会員となった。明治32年第7回日本絵画協会展出品。明治33年南宗画会を大阪南宗画会と改称し、第1回全国南画共進会を開催、2等賞銀牌を受賞した。また、日本美術協会にも会員として参加した。淑心会を組織し、大正元年大阪博物館で個展開催、大正4年第1回大阪美術展の後見をつとめた。大正7年竹外南画院を設立し後進の育成にあたった。昭和3年、89歳で死去した。
参考記事→江戸後期の筑前四大画家
大阪(86)-画人伝・INDEX
文献:大阪の日本画、日本の花鳥画、上島鳳山と大阪の画家たち