跡見花蹊「山水図」
跡見花蹊(1840-1926)は、摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区・西成区)で私塾を営む跡見重敬の二女として生まれた。幼いころから学問を好み、父に三字経や孝経を学び、父の私塾を手伝った。12歳で石垣東山について円山派の画法を学び、また槇野楚山にも画を学んだ。
17歳の時に京都に出て、頼山陽門下の宮原節庵に漢学、詩文、書を学び、円山應立や中島来章に画を、さらに日根対山に南画を学んだ。京都での暮らしは経済的に苦しく、扇面の絵付けなどをして自ら学費をまかなったという。
安政5年、父が中之島に私塾を移したため、それを手伝うため大坂に戻った。翌年父が京都の公家へ出仕したため、塾主となった花蹊は、「新時代に後れをとらぬ女子の教育こそ、教育家として努力すべき道である」という持論のもと女子教育に着手し、近隣の裕福な子女たちを教えた。
中之島では慶応元年までの8年間を過ごし、その間、漢籍、漢学、詩文を後藤松陰に、和歌を高橋正純に、茶の湯を二代木津宗詮に学ぶかたわら、屏風や軸物、襖絵などの依頼を受けて精力的に制作した。
慶応2年、京都に戻り私塾を開いたが、明治3年、それを閉じて上京、神田猿楽町に私塾を開いた。すでに女子教育者として名声を得ていた花蹊のもとには多くの入塾希望者が集まり、規模を大きくするため校舎を新築、明治8年に跡見学校(のちの跡見学園)を開校した。
跡見学校では、花蹊が絵画の授業を担当し、自ら描いた四季折々の花卉図を木版刷りにして画帖に仕立て、生徒に手本として与えたという。花蹊は、大正8年に校長を退くまで女子教育と絵画指導に携わるとともに、日本画家、書家として活動を続け、たびたび皇后、皇太后の御前揮毫も行なった。
跡見花蹊(1840-1926)あとみ・かけい
天保11年摂津国西成郡木津村(現在の大阪市浪速区・西成区)生まれ。父は寺小屋を営んでいた。名は瀧野。西成、木花などと号した。12歳の時に石垣東山につき、その後槇野楚山についた。17歳の時に京都に遊学し、詩文を宮原節庵に、画を円山應立、日根対山らに学んだ。明治3年東京に移住し、明治8年跡見学校(後の跡見学園)を創立し、女子教育に尽力するとともに、日本画家、書家としても活躍した。大正15年、85歳で死去した。
大阪(83)-画人伝・INDEX
文献:女性画家たちの大阪、江戸時代の女性画家、近世の大阪画人