江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

養子となった田能村小斎ら関西での直入の門人

田能村小斎「浪華大川眺望図」

田能村小斎(1845-1909)は、播州北條(現在の兵庫県加西市北條町)に生まれ、明治維新後は大阪と京都で暮らした。田能村直入に師事し、直入の子供が突然死去したため養子となった。直入や子の小篁(1879-1910)らといっしょに「直入工房」をつくったと思われる。

また、豊後国馬場村(現在の大分県杵築市安芸町)に生まれた永松春洋(1849-1927or1931)は、大阪に出て田能村直入に師事し、その後は遊画家として日本各地を旅し、名古屋南画会員になるなど南画界で活躍した。明治26年からは大阪に居を構え、矢野橋村らを育成するなどのちの南画界に大きな影響を与えた。

静岡の漆器商の家に生まれた田中柏陰(1866-1934)は、17歳の時に京都に出て田能村直入に師事し、竹田・直入の画風を受け継ぎ、濃彩の山水画を得意とした。師直入は、柏陰の才能を認め、養子としたが、のちに事情があって本姓に戻したという。

田能村小斎(1845-1909)たのむら・しょうさい
弘化2年播州北條(現在の兵庫県加西市北條町)生まれ。漢学者・大野乙山の子。名は順、字は子慎、通称は順之助。田能村直入の門に入り画を学び、また、江戸に出て画を春木南溟に学び、大阪で書を後藤松陰に学んだ。武道に長じ豊後の岡藩主に仕えた。維新後は、大阪、京都で暮らし、直入の子が没したため養子となった。南画のほか極彩色の密画による美人画なども描いた。明治15年『青湾画譜』を大阪の書肆から出版した。明治42年、65歳で死去した。

田能村小篁(1879-1910)たのむら・しょうこう
明治12年生まれ。名は直太郎。祖父は田能村直入、父は田能村小斎。祖父と父から主に南画を学んだ、水墨画、着色画、金泥画など多彩な絵画を手掛けたが、早世したため作品数は少ない。明治43年、32歳で死去した。

永松春洋(1849-1927or1931)ながまつ・しゅんよう
嘉永2年豊後国馬場村(現在の安芸町)生まれ。名は孝三郎。別号に汲古園がある。山水画を十市王洋に、花鳥画を木下橘巣に学び、さらに大阪に出て田能村直入に師事した。以降は大阪で活動を続け、多くの門弟を育て、南画の再興に貢献した。関西では南画界の泰斗とされ、弟子たちによってのちに「雲燎会」が組織された。あっさりした人柄で各種の公共事業にたびたび私財を投じたという。昭和2年(一説には昭和6年)死去した。

田中柏陰(1866-1934)たなか・はくいん
竹田系作品鑑定の第一人者・田中柏陰と門人

大阪(79)-画人伝・INDEX

文献:サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、日本の花鳥画、大阪ゆかりの日本画家、近世の大阪画人、十市一門と大分の近代南画