玉手棠洲(1795-1871)は、中井藍江に師事し、山水人物を得意とした。常に酒を飲んで泥のようだったといい、そのため酔仙人と称された。住居は転々としていたようで、天保頃は堂島、老松町、嘉永頃は中之島、その他に伏見両替町、または大江橋南詰で暮らしていたといわれる。洒脱な大坂真景図も散見されるほか、大胆な構図の人物像などが残っている。
棠洲の長男・梅洲(不明-不明)は、父に画を学び、晩年は山代伏見の両替町に住んだ。二男の菊洲(1833-1914)は浪華に残り、父と兄の画系を継いだ。
玉手棠洲(1795-1871)たまて・とうしゅう
寛政7年生まれ。大坂の人。名は蓮または連、字は清操または子恒、通称は常恒蔵。別号に酔仙人がある。中井藍江に学び、山水人物を得意とした。明治4年、77歳で死去した。
山口蘭石(不明-不明)やまぐち・らんせき
大坂の人。中井藍江に学び、山水花鳥を描いた。天保年間の『画名案』には米屋町に住む画人として登場する。
水尾龍洲(1789-1832)みずのお・りゅうしゅう
寛政元年生まれ。大坂の人。はじめ卜龍または墨龍と号し、のちに龍洲(一説に龍淵)と改めた。中井藍江に学び、山水花鳥人物を描いた。画法が確かで水墨、彩色両方ともこなしたが、名を成さぬうちに天保3年、44歳で死去した。
木村片石(不明-不明)きむら・へんせき
大坂の人。名は徳、字は子順、俗称は六蔵。中井藍江に学び、画家として名があったが、詳しい経歴は不明。文化10年の木村蒹葭堂十三回忌書画展に「亀図」を出品し、文政5年の阿部良山追薦書画展では補助をつとめている。文化頃は道修町乃至尼崎、文政以降は今宮に住み、天保年間までの生存は確認できる。
大阪(49)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画