江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

勤王志士と交流し新選組に捕えられ獄死した藤井藍田

藤井藍田「寒馬録図巻」(部分)

藤井藍田(1816-1865)は、阿波の人で、父が大坂で営んでいた呉服問屋「錦屋」に生まれた。家業を継いだが、文雅の趣があり、画を中井藍江、田能村竹田、書を八木巽処、詩文を広瀬旭荘に学び、早くから家督を子に譲り、南堀江で私塾「玉生堂」を開いた。

壮年、広瀬旭荘について西国を遊歴したことを機に勤王の志士と親交を持つようになったが、吉田松陰、桂小五郎、河野鐵兜、橋本香坡らと交流があったことから、大坂に駐屯していた新選組から討幕の密謀を図ったとして捕えられ、拷問の末獄死した。

橋本香坡(1809-1865)は、上野沼田(現在の群馬県沼田)の人で、幼少の頃大坂に出て篠崎小竹に師事した。篠門四天王の一人とされ、数年の間近衛公の下で学問を教授した。その後大坂に戻り書家を業としたが、勤王説を主張しため、藤井藍田とともに捕えられ、獄死した。

また、同時期に大坂で活動した南画家としては、詳しい経歴は伝わっていないが、山本梅逸に学び花鳥をよくした正林葭陽(1814?-不明)がいる。

正林葭陽「山水図」

藤井藍田(1816-1865)ふじい・らんでん
文化13年生まれ。阿波の人。幼名は平三郎、名は尚徳、字は伯恭、通称は平左衛門。別号に梅軒、独鶴巣がある。南堀江で呉服商を営んでした。画を中井藍江、田能村竹田、書を八木巽処、詩文を広瀬旭荘に学んだ。吉田松陰ら勤王の志士らと交流があったため新選組に捕えられ、慶応元年、50歳で獄死した。
参考記事:阿波の儒者・赤松藍州と藤井藍田

橋本香坡(1809-1865)はしもと・こうは
文化6年頃生まれ。上野沼田藩士。名は通、字は大路、通称は半助。別号に毛山などがある。大坂で篠崎小竹に学んだ。伊丹明倫堂の初代教頭となり、のち大坂に塾を開いた。著作に『皇朝名家詩鈔』『西遊詩稿』がある。萩藩の勤王派を助けたため新選組に捕らえられ、慶応元年、57歳で獄死した。

正林葭陽(1814?-不明)しょうばやし・かよう
文化11年生まれ。大坂の人。名は道紀、字は公道、子綱、通称は正兵衛。号は葭陽。山本梅逸に学び、花鳥をよくした。

大阪(36)-画人伝・INDEX

文献:近世大阪画壇、浪華人物誌1サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大阪画人