江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

父米山人同様に晩年に多くの傑作を生んだ岡田半江

岡田半江「米法山水図巻」(部分)

岡田半江(1782-1846)は、岡田米山人の子として生まれ、幼いころから父に画の手ほどきを受け、はじめ小米と号したが22歳頃に半江と改めた。28歳頃には父同様に津の藤堂藩大坂蔵屋敷に下役として仕えた。

父の没後、米屋彦兵衛を襲名したが、天保3年頃、40代で早くも13歳の子息に家業を譲り、この前後に藤堂藩も致仕し、天満橋東辺に隠居したと思われる。父譲りの書画に囲まれ、興に応じて書画を作る隠逸生活だったが、親友の大塩平八郎が起こした反乱を契機に住吉浜に移住し、この地で生涯を終えた。

田能村竹田頼山陽篠崎小竹ら多くの文人と親交を結び、詩情豊かな高逸枯淡な画境は、生前より高く評価された。父同様、最晩年に傑作が集中している。

岡田半江(1782-1846)おかだ・はんこう
天明2年生まれ。岡田米山人の子。大坂で生まれた可能性が強いが、津で生まれたという説もある。名は肅、字は子羽、俗称は卯左衛門。幼名を常吉といい小米と号したが、21、2歳頃から半江と改めた。別号に無声、自適、寒山、寒山寺外史、寒山寺野叟、独松楼がある。幼少の頃から父に画の手ほどきを受け、父没後、米屋彦兵衛を襲名したが、40代で13歳の子に家業を譲り、この前後に藤堂藩に致任したと思われる。弘化3年、66歳で死去した。

岡田九茄(不明-不明)おかだ・きゅうか
大坂の人。岡田半江の子。名は賓、一説に吉張。字は九茄、または大梁。寸龍と号した。天保期に北浜辺りで活躍したとされる。祖父米山人や父と同じく彦兵衛と称したことから米穀商をしていたか、父同様に藤堂藩大坂蔵屋敷につとめていたかは不明。天保3年頃に13歳で家督を譲られた「彦兵衛」の可能性は強いが詳細は不明。作品は多くないが、確認できるものは米山人や半江の作品を模したものが見受けられる。

大阪(32)-画人伝・INDEX

文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、大阪ゆかりの日本画家、近世の大阪画人、近世の大阪画人、大坂画壇の絵画